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路線図:駅:街→私

27歳 ネットワーク科学 メディア 以前のこと 思想 政治学 東京

(東京の路線図。なんとまあ複雑なことよ。)

 はじめに言っておくと、この記事は路線図と街の関係について書いているようで、実はそうではない。テーマが何であるかは読み手の方々の想像にお任せする。そんなにもったいぶるほどわかりにくい比喩でもないとは思いつつ…。

人気の駅と人気の街

 路線図を観察していると、たくさんの利用者がいる駅にはたくさんの路線が通っていて、その周辺部は栄えていることがわかる。路線図は数学的には「グラフ」(無向グラフ)として扱うことができるから、その構造を分析する事によって、特定のノードとしての「駅」が、すべての駅の中で何番目に優れているかといったランキングを作ることができる。

http://livedoor.4.blogimg.jp/hatima/imgs/7/8/78a41b99.png

(世界上位100駅の年間乗降客数ランキング。なんとすべて日本の駅。

出典:世界上位100駅の年間乗降客数比較、日本だらけでワロタwwwwwwww : はちま起稿

 ここで、「優れているとされる駅の周辺は、街として繁栄している」という正の相関関係があるならば、駅のランキングを行うことによって、私たちは間接的に街のランキングを行っていることにもなる。「優れている」ということには何らかの価値判断が入るけれども、特定の価値観を反映したランク付けでは客観的とはいえないので、なるべく恣意性の入り込む余地のない形でランキングを行う必要がある。

 そこで考えられるのは、冒頭に述べたように、多くの駅とつながっている駅のランクを上位にもってくるという方法だ。この方法を使えば、特定の誰かが大量の「サクラ」として、「あの駅いいよ!」と声高に主張していたとしても、そういう特定の個人の評価だけに左右されずに、多くの人間の評価の最大公約数をとって、より公平なランク付けを行うことが可能になる。

 ここで、「自分はどこに住むべきか」を考えている人物Aと人物Bがいたとする。彼らはこの「駅ランキング」を参考にして、その駅が最寄駅であるような場所に住もうと考える。Aにとっての「いい街」とBにとっての「いい街」は、上のようなランク付けの方法では同じになるだろう。しかし個人から見れば、最大公約数的な「いい街」と自分の考える「いい街」とは必ずしも一致しないという問題に直面する。そこで、ランキングを行う企業Gは、ランキングを利用する人間の個性をランキングの結果に反映するようなランク付け方法の改良を行う。ただし、グラフ構造からランク付けを生成するという前提は崩さずに。

点と線のかたまり、或いはリスト

(最近話題のパナマ文書に関する、株主や取引関係を示したグラフ。

出典:パナマ文書の取引や株主の情報がグラフ構造として公開されてるらしい - データの境界

 何かをランク付けしたければ、それについてのグラフがあればよい。そのグラフの構造を分析すれば、ある特定のノードがグラフ全体の中で何位にランクインしているかがわかる。点と線のかたまりは、一定の手順で処理されたのち、リストに変わる。

 点と線のかたまりも、リストも、その背景には「競争」(competition)がある。点と線のかたまりにおいては、かたまりの中でたくさんの線が延びている点が優秀ということになるし、リストにおいては、上にきているものほど優秀ということになる。競争で勝ったものこそ、より多くの人に知られるべきであると。

 競争というメカニズムは、よりよいもの、正しいものを選び出すアルゴリズムになっていて、より長い時間経過の末に生き残ったものは価値が高いとされる。逆に淘汰されたものは、知られるべきものではないとされ、点と線のかたまりでは周縁に位置付けられ、リストにおいては下に回される。リストは、やるべきこと(ここには「買うべき食材」だとか、「手をつけるべきタスク」だとか、いろいろなものが当てはまる)を考えるときに最もよく利用される。

(一般的(?)な買い物メモ。

出典:たぶん誰もやってない「買い物メモ」の書き方 - mind and write

 買うべき食材をリストにまとめるとき、私たちは当然のように、今すぐ必要な食材だけをリストアップする。すぐに必要のない食材をわざわざリストに書く人はほとんどいないだろう。スーパーに行ったところで今すぐは必要でない食材を買ったりはしないからだ。これはまるで、検索結果の1ページ目だけを見るという行為のようだ。いや、「AはまるでBのようだ」と言うよりも「AはBと同型である」と言う方が正確だろうか。どちらも、私たち人間の「注意力」という資源に限りがあることに起因する現象だ。そして言葉の定義上、全てに対して注意を払うことはできない。一部に対して払うからこそ、注意は注意として十全に機能する。

ランキング→グラフ

 ある特定の構造をもつグラフを、一定の手順で処理することによってランキングという別の表現に変換することができるのだとしたら、その逆の処理は可能なのだろうか。つまりランキングを与えられれば、そこから特定の構造をもつグラフを生成することはできるだろうか。これはおそらくできる。それでは先ほど登場した買い物リストは、グラフに変換することができることになる。リストの上位にきている食材ほど、よく使われる食材という事になるだろうから、ある個人の買い物リストを長期にわたって収集すれば、それを可視化したグラフから料理の傾向がある程度明らかになるだろう。これは街と路線図の間にも同様に当てはまることだと思われる。つまり、ひとたび街のランキングを作ってしまえば、そこからまずは駅のランキングを生成した上で、上位の駅がたくさんの駅とのつながりを持つようなグラフを生成することができるだろう。なるほどこのように考えてみると、グラフとランキングの結びつきは強固であって、そこには切っても切れない「腐れ縁」や「運命の赤い糸」のようなものすら感じさせる。

 XとYには一対一の関係が成り立つ時、その「対応のさせ方」のルールさえわかっていれば、どちらか一方から他方を復元することは難しくない。グラフからランキングを、或いは逆にランキングからグラフを生成することができる。まるでDNAの二重らせん構造のようだ。ただしそのルールは、人物Aも人物Bも詳しくは知らず、ただベターな解判定の仕組みとしての「競争」に対する素朴な信頼が、ランク付けの大規模かつ継続的な利用を支えている。

 注意を向ける範囲には限りがあって、競争というものがその範囲をうまく決めてくれるのだとしたら、人間が、競争というメカニズムに沿って、自分の注意を向けるべき対象をうまく限定することには一定の合理性があるように思われる。競争は歪んでいるかもしれないし、勝者総取り(Winner-Take-All)という固定化が起こりやすいとしても、競争に対する信頼はそう簡単には揺るがない。もちろん一部には競争というメカニズムに対して懐疑的な人間もいて、そういう人間たちは自分の目で下位の駅の調査も行う。ランキングの主導権を、「あちら側」から「こちら側」に持ってこようとする。それはまるで、食べログには載っていない隠れた名店を探そうとするグルメたちの行為のようでもある。いや、同型である。

競争を利用したランク付け

 よりよい解を判定するために、競争というメカニズムはいたるところで利用されている。いや、「利用されている」などと書くと、人々が意識的に競争という方法を選択したかのように響くけれど、実際には自然発生的に競争状態が生じることがほとんどである。

 私自身、学部時代には経済学を学んでいたから、市場における競争のメカニズムによって、いかに効率良く資源(商品も含む)が配分されるのかということについて学んだ。効率的な資源配分が競争というメカニズムによって達成されるためにはどんな条件が必要であるかということは経済学の基本的な問題であって、「その条件というのが現実には当てはまらず、したがって経済学など所詮は机上の空論に過ぎない」という論調も何度となく目にしてきた。情報は完備(complete)でも対称(synmetric)でもないし、市場は完全競争(perfect competition)ではないではないか、と。

 それでは経済という領域において、よりよい商品が市場に出回るようにするためには、競争以外に何かいいメカニズムはあるのだろうか。政府の介入によって市場の不完全性を補完するという立場がひとつある。けれども実際には介入が失敗することも少なくなく、人々は失敗のたびに政府による介入に懐疑的な姿勢を強める。政府に任せようとする考えが生じるのは、調整を行う力を持っている主体が政府であるからだということだと思われるが、本当に政府だけだろうか。合理的な調整を行う力があるならば、それを実行する主体が政府である必要性は消えてしまう。「その時、政府は…」という政治学の問題はここでの議論からそれるので考えないことにしよう。

 ランキングの方法が完全でない場合、それをうまく調整できるやつが調整すればいいじゃんという考え方を採用するとして、「調整」というのは順位の調整でなく、結果の調整である。もちろん順位を調整するという考え方もあるが、それは「結果の調整」という問題の側から見れば、副次的な問題にすぎない。駅と街の問題の場合、複数の駅を一つにまとめることは難しいけれども、もしも調整にかかる摩擦が少ないならば、思い切って複数の駅を一つにまとめてしまった方がよりよい結果になる場合だってあるだろう。私は普段、通勤に井の頭線を利用しているが、駅と駅の間隔は他の路線よりも短く、思い切って駅の数を減らした方が利用者にとっても都合がいいのではないかと思う時がある。もちろん現実には摩擦が大きすぎてこれは不可能だろう。しかし可能なのだとしたらやるべきだという風に考えてみることにはそれなりの意義がある。少なくとも、この記事の冒頭に述べたように、それが駅と街の関係の問題のようでいてそうではないのだとしたら。

 

この記事のテーマに関係する、これまでの自分の問題意識を表現した過去記事たちを、ここでまとめて添付しておくことにしよう。備忘録として。

 

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