クラウド上の記憶と人間の記憶

「記憶」(memory)ということについて、EvernoteDropboxなどのクラウド上にデータを保存するサービスを使っていてたまに考えることがある。

 EvernoteDropboxなどのサービスを使ってクラウドに保存したものは、保存した人間自身も自分の頭の中に記憶していなければならないのではないか。「そもそも人間が記憶しきれないからこそこういうサービスが生まれてきたんじゃないか」と考えれば、こんな考え方はナンセンスのように思われるかもしれない。しかし、私たちにとっての記憶とは、EvernoteやハードディスクやSDカードなどに保存されている記憶とは同じのようでいてかなり違う。「同じ」というのは、私たちは記憶を頼りにものを考えるが、コンピュータもまた「記憶」を頼りにものを考えるようにできている。「メモリーにアクセスして必要な処理を実行する」と書くとなんだかコンピュータらしいが、やっていることの本質は私たちと実は変わらない。要するに「中にあるもの」を引き出して、それをもとにいろいろなことをやっているわけだ。その意味ではコンピュータが使う記憶とは、私たちにとっての記憶と同じ様に捉えることができる。一方で「違う」というのは、記憶の使って何かをするとき、どの記憶を使うか、どのように使うかを私たち人間は自分で全て指定できないのに対して、コンピュータは「プログラム」という形で事前にすべて指定されなければならないという点だ。これまではそういうことを指定するのはコンピュータを使う人間の仕事だったが、コンピュータ自身がどの記憶を使うかを判断する領域が拡大しているように思う。これは記憶について、コンピュータの「自立」が進んでいるという言い方もできる。記憶したことを自分で使えるようになるということは、一つの「主体」がそこに生まれるということだ。

 コンピュータにしろ、人間にしろ、記憶と思考(或いは処理)とは不可分だから、記憶だけを外部化してしまったら、思考の伴わない記憶ばかりが増える。記憶とは思考と組み合わさって成立するものだと考えるならば、「記憶の外部化」というのは言語矛盾なのではないか。人間がただ記憶によって人間たりうるとすれば、自分の元から記憶を手放し、自分の使う端末に保存した情報を自分の記憶と混同するようになってしまった人間にはどんな生があるといえるのだろうか。茂木健一郎さんが『記憶の森を育てる 意識と人工知能*1という本を最近書いている。装幀がいい感じで、内容も装幀に沿った硬いものを書いてきたなと思い、気になって少し書店で立ち読みしてみたのだが、人間にとって記憶はどのような意味をもつか、人工知能が人間の知能を超え、人類を滅ぼすとまで言われるようになっている状況において、私たちが人工知能とどの様に異なり、その私たちにとっての記憶とは果たしてなんであろうかと問うている。そんな印象を持った。この記事を書き終えたら、書店に買いに行ってこようと思う。

 

 人間が何かを習慣化することは、その何かの処理を自動化したいという欲求の表れなのではないかと思うときがある。そうやって何かを自動化しておいて、もっと他のことを考えたい、もっと他のことに「自分の頭」というリソースを使いたい、という欲求の発露が、人間に何かを習慣化させるのではないか。

 

私はもっと自分の記憶を使ってものを考えたい。

たとえば自転車を運転しながら、

たとえば散歩をしながら、

たとえば洗濯物を干しながら。

 

そんなときに、私はEvernoteに保存した事柄を使ってものを考えることはないだろう。それは記憶のようで記憶ではない。図書館を所有していても、いかにその図書館にいろいろな世界中の叡智が詰まっていて、それを誇らしく思っているとしても、それはそのままでは私から断絶していて、「私の記憶」とは呼べない。編集できないもの、書き換えのできないものは、記憶のようで記憶ではない。記憶は変わらないようで変わっていくものだ。同じことについて繰り返し話していて、毎回同じことしか思わなかったとしたら、それは記憶が変わっていないだけではない。自分のものの見方が変わっていないのだ。周りはどんどん変わっていくのに、ただ自分だけは変わらない保証なんてどこにもないのに。変わらない記憶とは情報にすぎない。そこには主体が関わらない。主体が関われば、情報は変わる。情報は主体と結びついて変化することによって、初めて「記憶」と呼べる。

 この記事の前に「アカウントと自分」という記事を書いた。いろいろなウェブ上のサービスのアカウントにログインするたびに、自分は他の誰でもない自分なのだと宣言させられているようで、あるいは自分は変わらないのだと言われているようで、なんだか落ち着かないという話だ。

 クラウド上の変化しないコンテンツを「これも自分の記憶だ」と思うようになっていくと、自分の中で変わらないもの、自分がそこに手を加えることができないものばかりが増えていって、「記憶」が記憶でなくなっていくようで、なんだかヒヤヒヤする。

*1:

記憶の森を育てる 意識と人工知能

記憶の森を育てる 意識と人工知能