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アカウントと自分

 アカウントにログインするとき、私はアイデンティティを自覚させられる。つまり私は他ならぬ私自身なのだということを突きつけられる。メールアドレスやアカウント名(ユーザー名)とパスワードを打ち込み、自分のアカウントにログインすると、そこには自分の過去のあれこれが、日付に沿って整然とならんでいる。それらひとつひとつが、私に語りかける。

 

どうだ、これがお前だ。お前とはこれこれのことを書き、これこれの写真を公開し、これこれのプロフィールを持った、これこそがお前自身なのだ、と。

 

 Twitterは過去のツイートを消すことはできても、その内容を書き換えることはできない。それは私たちが頭の中でいろいろなことを考え、それが時とともに書き換わっていくのとは対照的である。「書き換えるな、さもなければ消せ。」Twitterにはそんな考え方が潜んでいる様に思える。

 

 Facebookはどうか。そこでは自分の投稿を自由に書き換えることができる。字数制限も、140字に制限されているTwitterに比べれば、あってないようなものだ。Facebookには以前ほどワクワクしなくなってしまったが、今でも「これはいいな」と思うのは、投稿を編集したとき、編集前はどんな内容だったのかが履歴として残り、いつでもそれを参照できるところだ。

   しかしそんなFacebookでも、過去に自分が表現したことは、時系列に沿って固定されている。固定されているという意味では、「それは情報である」ということはできるが、「ではそれは私か」と言われれば、怪しくなってくる。

   私は小さい頃から、エピソード記憶が苦手で、あのときはこうだった、そのときはこうだったということを覚えていないことが多い。「小学校の頃の印象的なエピソードを挙げなさい」とか、或いは就活の面接などで聞かれそうな「高校や大学時代で最も感動したことは何ですか?」というようなことには、自分はまともに答えられる気がしない。感情に紐づけられて何かを記憶するということが苦手なのだろうか。しかし読んだ本や記事のことならば割と覚えていられる。まぁそれは、人生の多くの経験とは違って、反復が可能だからにすぎないのだろうけれど…。

 私が頭の中で何かを考えているとき、或いは何かを思い出しているとき、その度に私の考えはどんどん変化していく。そしてその履歴は、一部は「思い出」や「自分史」として、私にも見えているかもしれないが、大部分は向こう側へすっとんでいって、私とその記憶たちの間には遮光カーテンがかかっていて、私自身にとってさえ見えなくなってしまう。

   そしてそんな風に私の考えが変わっていくのにつれて、私自身も変わっていくような、そんな気がする。そのとき、私は「情報」とは違うのだと感じる。アカウントに保存された数多のデータたちは、私のアイデンティティに対応するかのようにそこにずっとあり続けるが、私はどんどん変化したい。だから止まったままのデータが私なのだと言われるのは、なんだか耐え難い。こういうところで、私は「自同律の不快」に直面する。つまり私は私であること、もっといえば私に限らず「A=A」であることについて、不快になる。

   「アカウント」という考え方がある限り、私は私自身を超えていくことが難しくなるのではないか。或いはこういう言い方もできるかもしれない。つまり、アカウントという考え方は、人間が自同律を根っこのところで受け入れていることのしるしなのではないか、と。

   最近はアカウントにログインするのを省略できるようになっている。つまりスマホやパソコンなどの端末自体がパスワードを保存してくれていて、勝手に入力してくれるので、スムーズにアカウントの中に入っていけるようになっている。端末にパスワードを保存したり、Chromeなどのブラウザに保存したりするのはセキュリティ上は危険な行為だと知っていても、私はログインのたびにパスワードを入力させられるのを億劫に感じてしまう。それは指を動かすことが億劫なのではなくて、私が私であることをコンピュータに示さなければならないこと、自同律をコンピュータに対して示すことが億劫なのだろうと思う。