陰謀論はどうしてこんなに流行るのか
政権批判の材料として、しばしば「陰謀論」(conspiracy theory)が語られる。
現政権は〜しようとしているのではないか?(主観的な確率20%)
→〜しようとしているしたら◯◯や△△にも合点がいく(勝手に確率50%を上回る)
→◯◯や△△は現政権が〜しようと「企んで」いる証拠である!けしからん!(もはや確率70%)
→現政権はきっと〜しようとしているに「違いない」(確率90%を突破)
そんな「主観的な確率の不自然な上昇」が、集団規模で生じているように「思われる」*1状況をネットで頻繁に目にする。これはある一人の人間の頭の中だけで完結しているのではなく、いろいろな人がある問題についてあれこれコメントするうちに、個人の内部で確証レベルが上がっていくという図式をとることが多い。「SNSそれ自体が悪である」という結論を下すのはナンセンスだが、SNS上では放っておくとこういう事態が自然と頻繁に起こるのは事実だ。
伝言ゲームや集団でのやりとりをしているうちに、1のことがあっという間に100になってしまう事態に対する違和感について前回記事*2を書いたが、陰謀論の周りではこういうことが特に起きやすいように思われる。
ちなみに、ある事柄について、「それが正しい」と証明する前から特定の信念を抱いている場合(これは「結論ありき」という言い方もできる)、その信念に合致するような証拠を優先的に探しがちであるというバイアスを「確証バイアス」(confirmation bias)という。確証バイアスは陰謀論と切っても切れない関係にある。
ここにある個人がいて、彼は「現政権が戦争をしようとしているのではないか」という「疑念」を抱いているとする。そんなとき、政権トップが戦争することを意図していると「(かなり強引ではあるが)解釈できないこともない」ような発言*3をすると、それを彼自らの疑念を裏付ける「証拠」(実際には証拠といえるレベルではないことがほとんどなのでカッコつきで表記する)として自説の補強材とする。そういう目で周りを見ていれば「証拠」はそこかしこに転がっている。そして彼と同じような主張をしている人間もネットを利用していれば簡単に見つかる。それは彼を「勇気」づける。あるいは奮い立たせる…。
そういうことがそこかしこで起きているように見受けられる。確証バイアスと、同調を加速させる環境になりやすいネットの連携プレーである。とりわけSNSは「つながる」ことがサービスの根幹にあり、もはやFacebookでのつながりは現実以上に密な状態にまで至っている。時間と場所という制約がないぶん、個人同士を結びつける力が強い。
自分の与り知らないところで物事が進んでいく事を良しとしない人というのは、陰謀論信者に限らず、けっこうたくさんいるのかもしれない。
かつて徳川家康が関ヶ原の戦い後、諸大名を親藩・譜代・外様の3つのグループに分け、親密さの順に江戸を中心に配置したことをふと連想する。
①自分自身(個人)
②自分の所属する集団(内集団)・・・家族や学校、企業など
③自分の所属しない集団(外集団)・・・他の家族や学校、企業、共同体、社会、国家など
にカテゴリー分けしたとき、多くの人がせいぜい②までは信じられても、③までくるとそこに「自分の与り知らないところで事態が進んでいくこと」への不安を感じたりするものなのかもしれない。とくに政治の場合には、特定の人物のもとに大きな権力が集中していると思われやすい。*5
社会集団の規模にもよるけれども、③を信頼することが難しい個人を前提とすると、現存する多くの社会集団は自然に任せて存続させるのは難しい。そこにはなんらかの制度や文化、あるいは道徳が、明示的であれ暗黙のものであれ「ルール」として共有されていることが必要になってくる。それは放っておけばどこまでも走り続けがちな「本能」(この場合は特に確証バイアス)とのバランスをいかにとるかということでもある。
代議制(間接民主主義)の場合には③を信頼する国民性が前提として担保されていないとうまく回らないだろう。そう考えるとネットでの陰謀論の拡散や反復は不安を感じさせるものがある。
日本の場合は人口が1億を超えているから、いくらネットでいろいろな人がつながっているとはいえ、まだまだ互いに顔も名前も知らない人がほとんどという状況だ。そんな状況下で、個人に③を信頼させるに足る説得材料を提供するのはけっこう難しいだろう。
*1:この「主観的な確率」というのを確かめることができないため、断定を避け「思われる」と表記した。
*2:
plousia-philodoxee.hatenablog.com
*3:たとえば最近では安部総理の「我が軍」発言、ISILに対する「テロリストたちを許さない」発言、三原じゅん子議員の「八紘一宇」発言など
*4:2011年にはすでに生じている状況である。ミラノ大学とFacebook社の共同調査によると世界の人々のお互いの結びつきの程度を表す、いわゆる「6次の隔たり」は、Facebook上では4.7次の隔たりである。 しかもこの「4.7」という数字は、世界各国をまたいでの「つながり」についてであり、特定の国の国内に限定すると結びつきはさらに強くなる。日本での数字がないのが残念ではあるが、ネットワークの構造がスケールフリーであるならば、「ハブ」を中心とする結びつきは特に密であるから、ハブとなる個人の投稿は、内容によらず彼の「ネットワーク上の位置」だけでも、多くの人間を結びつけやすい。
*5:しばしば安部総理が言論弾圧や戦争肯定論などの文脈でヒトラーになぞらえられる。しかし比較をするのであればヒトラーと安部総理という「個人」どうしを比べるだけでなく、彼らを取り巻く「政治状況」の方も考えるべきだ。ヒトラーが「独裁」と呼ばれる状態にあったとき、彼の握っていた権限と安部総理が現在握っている権限とは異なり、それはひとえに政治状況の違いに帰せられる。このあたりはまたいずれ、ひとつの独立したテーマとして記事で書こうと思う。