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表現の自由をめぐる空気と「何が消えたか気付かない問題」について

 近頃は色々な出来事について、色々な人が色々な立場から色々なコメントをしているけれども、一つの大きな潮流として表現の自由を守れ!」というのがある。

 

 イスラム国(ISIS或いはISIL)による日本人の人質事件、フランスのシャルリー・エブド紙の風刺画の掲載についての是非、特定秘密保護法の是非あたりのトピックは、それぞれに異なる議論がありながらも、「表現の自由」という共通テーマが必ず出てくる。おそらくは特定秘密保護法のニュースがまず最初に「表現の自由の抑圧」という空気を作り出し、それによって抑圧に敏感になった人々が、次々に起こる新たな事件や出来事を見るときにも、「表現の自由は守られているか否か」という視点で見がちになっているというバイアスが出来上がってしまっているように思える。バイアスについては別の記事も書いた。

 安易な一般化の問題ーりんごが赤いからといって、果物がすべて赤いとは限らない - ありそうでないもの

 

 

 

 「バイアス」という言葉を使ったけれども、もちろん「表現の自由」は尊重されるべきで、必要であれば十分に丁寧に議論がなされてしかるべきであると考えるが、表現の自由を脅かすようななんらかの構造についての議論がなければ、どうしても「抑圧は嫌だ!」という感情的な議論に終始しがちであり、注意が必要だと思う。

 

 「表現の自由」というのは、「メディア」(どのメディアを使って表現するか)を抜きにしては語れない問題であって、それはテレビや新聞、雑誌などの旧来のメディアだけでなく、新興メディアであるSNSについても、特に「どこがスポンサーになっているか」「誰がお金を出すことで運営されているか」はメディアの公共性公益性を考える上で抑えておくべき視点だろう。

 

 メディアは、スポンサーの悪口は書けない・言えない。その時点ですでにある程度の制限がかかり、すべてのことは表現できなくなる。スポンサーの数が多ければ、特定の一社の影響力はそれほど大きくはならないので、寡占や独占の場合に比べて情報の透明性、表現の自由が担保しやすい。これは経済学の基本とも通じる問題であって、市場には数多くの企業(生産者)が参加している方が、一社ごとの価格設定への影響力を小さくすることができ、市場における売り手と買い手双方の厚生(welfare)が最大化されるのと同じ論理である。言い換えるなら、「自由を担保するためには、多くの人がそこに参加していることが必要で、少数の参加者だけしかいなければ、ある程度の歪みが生じることが避けられない。」ということになるだろうか。

 

たとえばメルマガは、スポンサーを介さずに、情報の送り手が受益者(情報の受け手)自身から料金を徴収するので、表現の自由を確保しやすい。まだまだ「ネットの情報にお金を払う」という感覚は浸透しきってはいないところもあるかもしれないが、あるコンテンツに触れる場合に、情報の送り手と受け手の間に「スポンサー」(特にそのメディアの運営を経済的に支える大口スポンサー)が介入しているか否かは、情報の透明性を左右する。

 

 それが大衆(公衆)を対象とするマスメディアである場合には、特定のスポンサーだけが他のスポンサーに比べて圧倒的に影響力を行使しうる状況というのは、表現の自由を担保するのにはあまり好ましくない環境だろう。そしてそのマスメディアを通して大衆に伝わり、評価されるコンテンツは、基本的に「多数決の論理」(或いは「人気投票」)で動くことになるので、大衆の側に情報の多様性を求めるような雰囲気がなければ、「一人勝ち」(Winner Takes All)の論理が働きやすくなり、それはコンテンツにおける表現の自由に対する制限にメスを入れる流れを生むことはないまま、温存される。

多数決については、ずいぶん前に多数決の有効なサイズということを考えたことがあった。

 多数決の適切なサイズは存在するか - ありそうでないもの

 

 

そしてこの多数決、人気投票の背景には、「盛り上がっているツイート」や「盛り上がっている投稿」についての、構造的な制約も関わってくる。たとえばある有名人や政治家のツイートが大量にリツイート(RT)されたとすると、それはTwitterの中で表示回数が多くなるので、それ以外のツイートの表示を間接的に妨げることになる。また、たとえばそれが500回リツイートされたというときに、元のツイートを見た人のうち、それをリツイートしなかった人の数(非リツイート数)はわからない。そのツイートを見たのは10万人であれ、或いは1000人であれ、私たちから見えるのは500回リツイートされたというところだけだ。母数はいつも不明のままで、もし10万人のうちの500リツイートなのか、1000人のうちの500リツイートなのかは、意味が大きく異なるが、そもそもその区別はできないようなアルゴリズムになっている。これが先に書いた「構造的な制約」である。お好みであればこれをアーキテクチャと呼んでもいいだろう。Twitterを例に考えたが、これはFacebookの「いいね!」の数や、はてなブックマークの数など、ネット上のいろいろなところで言える話だ。

 

こうしたSNSにおける構造的な制約、そしてメディアにおけるスポンサーの影響力によって表現されることを禁じられた表現(コンテンツ)は、まとめて言うなら「何が見えていないかがわからない問題」「何が消えたか気付かない問題」ということになるだろうか。

 

多数決と大衆との関係については以前に記事を書いた。

「多数決で正しいことを決める」という、あの感覚について - TOKYO/26/MALE

 

 

ネットメディアといえども、まだ収益性がしっかりしたところは国内は少ない。どこかしらの巨大企業の資本が、他のスポンサーの資本を大きく上回る規模で投入されている。スポンサーからの編集権の独立が保証されているならば問題はないけれども、そういうことは基本的にはない。ここには「多数の参加者による厚生の最大化」という「市場の論理」(経済学の論理)が必要なのではないか。