ページの折れた辞書
高校受験のとき、一番行きたかった高校は偏差値が足りずに諦め、二番目に偏差値の高い高校を選んだ。その決断をする前に、自宅から5kmほども離れた最寄駅の脇にある書店で、一冊の英和中辞典を買った。その辞典は、私が行きたかった第一志望の高校で指定されている辞典であって、まだ受験もしないうちから母にお金を出してもらって購入し、当時の私はご満悦だったと思う。結局私はその高校は受験しないで、二番目の志望校を受験し、そこへ進学した。福岡県立八幡高校は、私が既に購入していたその英和中辞典とは別の英和辞典を指定していたので、私は辞典を買い直さなければならなかった。それでも私の家には、最初に買った英和中辞典がずっと残された。はっきりと自信を持っては言えないけれども、保管する時にも、二冊の辞典は隣り合わせで並んでいた様に思う。少なくとも、「様に思う」と言いたくなるくらいには、存在感があったのだろう。ただの英和辞典でなく「中」が付いているというところに、当時の私はなんとも言えない満足感を感じていた。それは単に収録語数が多いということだけではなくて、その重みや語釈や用例の違いなども含めて、或いはその装丁も含めて、中辞典というものを味わっていた。高校時代には、もちろんその高校で指定された方の辞書を主に使っていたけれども、私の頭の中には常に中辞典の存在があったし、現役の頃に受験に失敗し、浪人してから東京の大学に合格して、上京してからも、思い起こされることはほとんどなくなってしまったその中辞典は、それでも確かにある種の重さを保って、私の頭の中の、押入れの中にしまわれ続けていた。
去年のいつ頃だったか、塾の生徒が使うのにちょうどいいだろうと考えて、私はその中辞典を校舎へ持って行った。それ以来、その中辞典は校舎の本棚の定位置に居場所を持ち続けている。私は主に、高校生に英語を教える時に、その中辞典を持ってきては生徒に単語の意味を調べてもらうよう指示を出し、その中辞典を使ってもらった。
昨日もまた、そんな風にしていつものように、私は本棚から中辞典を取り出して生徒にそれを渡し、長文の中で出てきた意味のわからない単語について、生徒に辞典を使って調べてもらった。生徒が調べ終わって辞典を私に返した時、私はその中辞典の後ろの方のページが何ページか折れ曲がっていることに気が付いて激しい怒りを覚えた。
それはなにも、その中辞典だけが初めてなのではなくて、校舎で使われている他のテキストについても、既に何度も起こっていた。私はそれに気が付く度に、ページが折れ曲がる原因を作った人間、ページが破れる原因を作った人間に、激しい怒りを感じた。折れ曲がる様な雑な扱いをした人間は、その背骨を折り、ページが破ける様なことをした人間は、腹から体をちぎってやれば、そのテキストが感じた痛みを、少しは理解できるのだろうかという妄想さえも、私の頭の中に浮かんできた。私は幼い頃から、物を粗末に扱う人間が、どうしても許せなかった。生理的な嫌悪を覚えるという表現があるが、その嫌悪感と同様の嫌悪感を抱く。特に今回は、自分にとって思い入れのある中辞典のページを折り曲げられたとあって、それをなした人間に対して、殺意と言っても差し支えのない強い感情を覚えた。
私はこうして、ブログに色々なことを書き記すということを続けている。それは一つには、心に浮かぶ考えを言葉にして表現せずにはいられないという素朴な欲求があるためで、また一つには、普遍的なものを志向する性質が、私の中にあるためである。普遍ということを追いかけていく時には、個別のものの中に、共通して息づいているものを認める観察が必要になるから、個別のものの差異を徹底的に主張しようとする態度というのは、却ってその観察の妨げになってしまう。中辞典のページを折り曲げるような、雑な扱いをした人間に対して、私が抱いた殺意は、言い換えれば激しい敵意であって、そこには私と敵との間に決定的な違いを感じ取り、向こう側にあるものを遠ざけ、自分の中に入れまいとする意識のありかただといえる。もしもそれがほんものの「殺意」であったなら、私はその「敵」とみなしたものを完全に消し去るまでは、強い感情が収まらないのかもしれない。私は、私自身が生きようとする本能、自分をこの世界の中に止めようとする本能のその一部に、ある種の暴力性を秘めている。それは私にとっての敵と味方とを瞬時に嗅ぎ分ける嗅覚と、仲良く手をつないで私の中に住んでいる。暴力性は、私に向かってくる敵に立ち向かい、それを排除することによって、私自身のいのちを永らえさせようとする。それは私の遺伝子の強い意志がそうさせるのだろうか。人間のゲノムは、ATGCのわずか4種類の文字が30億ほど連なって一つの設計図をなしている。30億のうちのいくらかが、中辞典を粗末に扱った人間に対する強い怒りと暴力性とを起動させる役割を、おそらくは担っているのだろう。そんな暴力性は、もしも30億文字の中に書き込まれているような代物であるのならば、私個人のレベルを超えて、人間一般に当てはまる性質、それこそ普遍的な性質なのかもしれない。
しかしそうした暴力性を抱える一方で、私は普遍的なものを求めて考え続ける側面もある。毎月受け取るいくばくかの給料の、その少なくない部分を本の購入に費やし続け、読み切ってもいないのに次から次へと新しい本を溜め込み続け、そうして何か大事なこと、見落としていること、生きていくときに自分を支えるものを掴んだり、また自ら作り出していこうとする。そういう志向が存分に発揮されるためには、中辞典を粗末に扱う者に対する怒りや殺意は、何か資するところがあるのだろうか。