あえてシンプルに、文章だけを書くこと

 「ブログ」というと、リンクを貼ったり図を入れたり、ツイートを埋め込んだりと、いろいろな「付け足し」をしながら書いていくものとされているところがある。そういうものが「リッチなコンテンツ」などと呼ばれ、持て囃されたりもする。少なくともPVの数を稼いだり、広告収入を増やすためのテクニックを紹介する類のものの多くは、ブログの書き方をその様に説いている。文章自体の書き方を説くものは以外と少なく、まるで「いい文章を書くこと=ブログで多くのPVを稼ぐこと」のような等式ができてしまっている感がある。

 

 多くの人に読まれることはいいことかもしれないし、書き手にとっては必要なことかもしれないが、それだけが「文章のよさ」の基準ではない。内容の構成やテーマの深さ、具体的なことと抽象的なことの結びつき、意外性など、いろいろなものが複合的に組み合わさってひとつの文章はできている。文章という言葉よりも「テクスト」のほうが考えが広がりやすく、個人的にはしっくりくるので、ここから先は「テクスト」と書くことにする。

 

 自分はテクストが好きだ。シンプルに、活字だけのテクスト。文字が整然と並び、それでいて読めばそれが沸き立って踊り、テクスト内の言葉どうしで交差し、テクストの外にある私の記憶とも交差し、文字しかないからこそ膨らむ想像力があるということをひしひしと感じさせる、そんなテクストが。

 

 画像を埋め込めばPVが増えるというのは今や常識のようになっている。画像くらいならまだいいが、広告やらなんやらがテクストの合間合間にごてごてと盛り込まれている記事を見ると、自分は逆に読む気がなくなってしまう。そういう記事は、私がテクスト自体に集中し、そこに没入し、それについて自分なりに考えるのを妨げるのだ。

 

 いいテクストというのは、活字だけで多くのことを訴えかけ、またあえて活字に限定されていることによって広がりをもつ。いろいろな人がいろいろな仕方でテクストを生み出していいし、それは尊重されるべきだとは思いつつ、一方で文字だけのシンプルなテクストが少ないのは、少し寂しい気もする。写真や動画と組み合わせることでテクストが新たな機能や意味を獲得することもあるだろうし、そういう可能性に目を向けるのも面白いとは思う。しかしそういう組み合わせの可能性自体を冷静に語る記事も少ない。アテンションエコノミー評価経済など、言い方はいろいろあるが、そういう言い方を用いて展開される議論の中に、文字以外の要素との組み合わせによって生まれるテクストの可能性を論じるものなどほとんどない。よくも悪くも注目されることが中心に展開される議論に、それが世の趨勢なのだとしても、ある種の虚しさを感じてしまう。

 

 さて私はどんなテクストを生み出そうか。