多数決の適切なサイズは存在するか

 中学生のころに学級委員をしていて、クラスで多数決を取ることがあった。自分は教室の前方、教壇の位置に立って、手を上げた人の数を数え、黒板に正の字を書いていく。

 

そこから見えるのは、顔と名前を知っていて、話したこともある人間たちだけだった。クラスの人数は30人程度。そういうものである。

 

 ネットを使うようになってから、特にSNSを使うようになってから、世間の色々な人たちが、個人のブログ記事や評論、コラム、エッセイ、書籍などについて「投票」のような行動を取っているさまを日常的に目にする様になった。「いいね!」や「リツイート(RT)」「はてなブックマークはてブ)」などで何人の人がそのページの内容をおすすめしたり賛成したりしているのかが、数字で表示される。

 

その一人一人は、互いに顔も名前も話したこともない人同士であることの方が多いだろう。例えばアマゾンのレビューで自分の友人や知人を見つけることは稀で、知らない人が書いたレビューを私たちは素朴に参考にしながら色々なページを見ている。

 

数字が表示され、しかも誰がそこにコミットしているかが見てわかるようになったのは割と大きな変化だろう。たとえばただの「投票」というのであればGoogleは当初からずっと「投票の集計」をし続けているサービスで、投票したのが誰かはもちろんわからないが、集計結果を参考にページのランキングを生成している。(最近ページランクアルゴリズムが変わったらしく、どう変わったのかまだ私は知らない。そのうちちゃんと調べてみよう。)

 

 ちなみにこの辺の「匿名」「公開か」について、一方ではネットにおけるプライバシーを重視し、他方ではSNSを中心に「あなたの名前が公開されますよ」ということに本人も納得の上でコンテンツの「投票」を行っているという、なんともアンビバレントな状況は何だろう。前者から後者へ、直線的に推移した、なんてわけでもないし。

 

 安倍政権はこの国を戦争に向かわせているのか」論がずっと続いている。

 

 戦争の可能性がどれくらいか、計算することは難しい。こんな記事を読んだりした。


瀬戸内寂聴さんを苛立たせた堀江貴文氏の「戦争になれば逃げる」発言 - ライブドアニュース

 

 戦争を「コスト」(或いは堀江さんの過去の言葉で言えば「経済合理性」)の観点から考えるのは堀江さんらしいと言えば堀江さんらしい。彼が読んだかどうかはわからないけれど、戦争が経済的な要因で展開していくというのは色々な人が色々な本*1で言っていることで、瀬戸内さんもその辺を汲み取れていなくて、こみ上げてくるイライラを押さえつつも結局「いわゆるドライなホリエモン」と捉えて彼に向き合ってしまっているために対話は平行線を辿っているみたいだ。もう少し彼の意見の背景を汲み取れていたら面白かったのだけど。

 

 例えばジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』をもとに考えてみる。

 堀江さんの戦争観がこういう人たちの本をもとに形成されたものかどうかということよりも、 彼と同じような考え方で戦争を捉えている人間は他にもけっこういるしかも日本だけでなく海外でも(むしろ海外を中心に)多く、それなりの規模があるということの方が重要なのだと個人的には思う。*2

 この本では人類史が銃の発明、病原菌の移動と拡散、資源としての鉄の分布や利用法の発達によってどのように展開してきたかを様々な例を挙げながら説明している。歴史の問題でよく出てくる「なぜアメリカはこれほど短期間で世界の覇権を握るようなところまで発展することができたのか」についても、上記の3点を中心に説明がなされる。

 

 戦争の発生や展開についても、銃がどのように影響を及ぼしたのかが大航海時代のスペインによる南米侵略を例に説明される。人口の点では圧倒的に南米の先住民たちの方が多かったにも関わらず、既に銃をもっていたスペイン人たちは簡単に先住民たちを征服してしまった。そしてそこには単なる武器の優位だけでなく、スペインから持ち込まれ、先住民は耐性をもたない「病原菌」も関係した…そんな具合だ。

 

 これから日本が戦争を起こすのか、或いは巻き込まれるのか、正直言ってわからない。

気持ちとしては嫌だなあと思うが、起きるときは起きるんだろう。たとえ多くの人間が心では反対していても起きてしまうのが厄介だ。

 

 冒頭のクラス内多数決の話に戻ろう。もし戦争に向かって進んでしまっているとしたら、その多数派の人たちはお互いに顔も名前も話したこともない人の方が圧倒的に多い集団の一員として動いていることになるだろう。「戦争」というトピックに限らず、世の中のありとあらゆる社会的な関心事について、何かが集団的に評価され、事態が進んでいくというとき、クラス内の多数決とは意味内容が大きく違う多数決が行われている。

 

 顔も名前も知っていて、話したこともある人たちの範囲で多数決をしていたころ、それで意見が割れて議論になっても、まあ安心という感覚がどこかにあった。それとは対照的に、顔も名前も知らない、話したこともない、しかも数万人、数十万人、或いは数百・数千万人の人たちと自分が同じ側にいて、相手の方も同じくらいの規模の人間が関わっている多数決、なんだか不安でしかない。

 

多数決のサイズは、もうちょっと小さい方が、安心だ。そんなことをふと思った。

*1:学部生のころにこんな本を読んだ。

 

戦争の経済学

戦争の経済学

 

 

 

*2: