自分の中で、自分について「見えているところ」と「見えていないところ」
(画像は葉酸補酵素結合型ヒトTタンパク質の立体構造と、高グリシン血症で同定された変異部位。以下のサイトより転載:http://www.spring8.or.jp/ja/news_publications/press_release/2005/050708/)
自分の意志で何かを決めるというとき、或いはなんとなく、直観などを使ってものを決めるとき、自分の中で、見えている部分と見えていない部分のふたつがある。
「何かを考える」とか「何かを決める」というとき、例えば言葉によって考えるとか、図式的に考えるという方法がある。こういう方法は、自分の中で「見えている部分」だ。
しかし例えば「直観」によってものを決めるとき、私たちはその直観の正体がなんなのか、実のところわからない。わからないけれども、「まあこれまで直観で決めてきて、だいたいうまくいってたし」というようにそれを信用して、何かを決める。それは自分の中で「見えていない部分」だ。
最近は「人間とは何か」ということが科学的に解明が進んできて、「意思決定のときにどんなバイアスがかかっているか」という研究が山のように出てくるようになった。日本でも、ダン・アリエリー『予想通りに不合理』『不合理だからうまくいく』『ずる 嘘とごまかしの経済学』や、シーナ・アイエンガー『選択の科学』などの本がここ数年よく売れている。脳科学、神経経済学、ニューロ・マーケティング(3番目だけはもう廃れた感があるが…。笑)などについての関心も高まっている。
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こうした研究によって、これまで意思決定を行う人自身には見えていなかった部分というのが、「ああ、そういう風になっていたのか」という風に「見える部分」に変わってきた。まあある種の「見える化(visualization)」である。
しかしそれでも、多くの人にとって、「未だに見えない部分」というのがかなり残されている。自分のことであるにもかかわらず、見えていない部分が。
例えばタンパク質の高分子、遺伝子の発現やエピジェネティックな作用について、ある個人が、自分の体内のこれらの特性について理解した上で意思決定を行う、ということは難しい。「よしまずはこのタンパク質をこれだけ生成(或いは分解)し、遺伝子のこの部分について、エピジェネティックにここをこういう風に修飾し直して…」という様なことは、自分の意志(自分の中で自分に「見えている部分」)では調整不可能だ。
しかしおそらく、人が何かを考えたり、決めたりするというときに、これらも確かに関与している。しかも、それは私たちが考えたり決めたりするための「道具」として使っているに過ぎない「言葉(言語)」や「イメージ(図式)」などよりもよっぽど「リアルなもの」として。
自分の体内を覗き込むわけにはいかない。しかし微小なカメラを入れたり、チップを脳に埋め込んだり、なんらかのセンサーを使って身体の反応を検知したり、ということは研究を中心として既に行われている。これらの研究にはとてもワクワクさせられるものがある。
少し前に『トランセンデンス』という映画が公開された。早くもDVDが出ている。「人工知能(AI)」の発達によって、主人公は自分の脳の活動パターンを忠実に再現したデータを人工知能にまるごと移植し、様々なセンサが生み出すデータや、世界中のコンピュータとのネットワーク(インターネット)と、リアルタイムで交信できる状態になった。
その中で、人工知能になった後の主人公が、恋人とのやりとりの最中に、彼女のホルモン分泌量の変化をセンサーで検出し、それをもとに彼女の内面の動揺や焦りを指摘する、というシーンがある。彼女は「プライバシーの侵害だ」と怒る。
相手の体内の、物質レベルの変化を除き見るというのは、確かに今の規範意識、モラルから、抵抗に遭うことは確実だろう。しかし自分の場合はどうか。自分が何かを決めるというとき、まさにその自分の体内で、ホルモンがどんな風に変化し、神経細胞のどことどこがどんな風に連結し、活性化しているのかについて、自分が把握できるようになったとしたらどうだろう。「見える化」である。
しかしそれらの情報はおそらく参考にならない可能性もある。ホルモンの変化くらいなら参考になるかもしれないが、脳内のニューロン同士の連結の様子など、知っていてもどうしようもないし、情報量が多すぎて、「意識的な活動」のレベルではとても処理しきれないのではないか。
考えるときに確かに起こっている現実であっても、私たちがそれを使い切れないがために、或いはそういう情報を扱うことに慣れていないために、有効に使えないことがらがある。
そういうことについて、果たしてどんな風に考えたらよいのだろう。