この自分と他の自分たち This 'Me' and the Other 'Me's

たまに自分のこれまでを振り返るときがある。

 
もし現役の時に九大に受かってたら、
もし現役の時にもっと早く京大を目指して勉強していたら、
もし小学生の時に、親に遠慮しないでライバルみたいな存在だった友達と同じ塾に入っていたら…。
 
そんな色んな「What-if(もしも)」の中でも、もし浪人して東大に受かってたら今頃どうなってただろう、というパターンが一番多い。
 
その場合、自分は東大の経済学部に進み、おそらくは経済学研究科に進んだんじゃないかと思う。つまりその場合でも、勉強が好きな自分は、就職という選択肢を考えることはなかっただろうなと思う。
 
翻って実際の自分はと言うと、浪人して青山学院大学に入り、今は同じ様に東大の大学院を狙ってはいても、それは経済学研究科でなく、工学系研究科だ。
 
もし青学に入らなかったら、工学系研究科を目指すことはなかっただろうなと思う。そして不思議なことに、経済学研究科よりも工学系研究科の方が面白そうだと「この自分」は思っていて、その気持ちには全く曇りがない
 
もし生まれ変わったら、という話は色んなところで登場する。映画、ドラマ、アニメ、小説、日常でのやりとりなどで。
 
アルバイト先の同僚に以前から薦められていた『BLACK LAGOON』の漫画版の最新刊を最近買って読んだ。そこにこんなやりとりがある。
 
 
 
ロック:なぁ、君は行き着く先がここだとわかってたら、別の道を選んだだろうか?それともー。
 
フォン・イッファイ:驚きね。今わかったわ。そう、それでも私は、たぶんここに来たと思う。 
 
 
 
もし今、自分がここでこうしているとあらかじめわかっていたら、或いは今から過去に戻れたりするなら、自分は予備校時代にもっと努力しただろうか。
 
今のこの自分の立場では、そうは思わない。むしろあの時中途半端な勉強をして青学に入っていたからこそ、大学の授業は退屈なほど簡単で、そこに他のことを学ぶ余裕ができて、複雑系離散数学、エージェントベースシミュレーションなどの面白い分野と出会うことができた。
 
そしてそんな分野を存分に研究できそうな研究科として工学系研究科を目指そうと思う様になった。それはかつて思い描いていた通りにならなかったことに対してポジティブシンキングで対処しているとか、今の自分を受け入れているとかいう類の話ではない。
 
そうではなくて、ここにいるこの自分が、実はあり得た他のいくつかの自分たちよりも楽しめているんじゃないかと思っているということだ。
 
楽観でも諦観でもなくそんな風に思えることはなんとも幸せなことだなぁと思う。
 
…というところで終わりではなくて、考えたいのはどうして自分はそんな風に思うのか、というところだ。何が原因でこうなったのか、同じ原因でも他の結果があり得たとしても、この結果が最善であると考えるのは脳のデフォルトの特徴なのかどうか。そんなことを。
 
 
まだうまく考えがまとまっていないけれど、そんな問題提起をしてこの記事は一旦終わりにしようと思う。