ドラえもんが歌を歌えば
僕はここにいる キミのポケットに
キミと一緒に旅するために
待っていたんだよ 気付いてくれるまで
「ポケットの中に」
作詞:武田鉄矢
歌:大山のぶ代
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久しぶりにドラえもんのこの歌を聴いていたら、ふと思ったのですが、ドラえもんの歌にはスタッカートが多いです。
だから日本語としてどこで単語を構成する音が区切れているかがわかりやすい歌い方をしています。ロボットらしい発音ですね。笑
実はどの国の言葉も、何も区別しなければ連続したままの音の流れを「音素(phoneme)」と呼ばれる単位に分割できることが知られています。そして世界中のあらゆる言語の音素体系は12個の二項対立の組み合わせ(すなわち2の12乗=4096通りのパターン)で分類できることも知られています。
この二進法による分類によって世界中の親族のパターンを分類してみせたのがフランスの文化人類学者レヴィ・ストロースです。彼の分類では世界中の親族の構造は以下の様に二個の二項対立の組み合わせ(すなわち2の2乗=4通り)で分類できるとされます。(『親族の基本構造』[1949]より)
X:父ー子/伯叔父ー甥の場合
0→父と息子は親密だが、甥と母方のおじさんは疎遠である
1→甥と母方のおじさんは親密だが、父と息子は疎遠である
Y:夫ー妻/兄弟ー姉妹の場合
0→夫と妻は親密だが、妻とその兄弟は疎遠である
1→妻とその兄弟は親密だが、夫と妻は疎遠である
コンピュータに二進法が使われていることは有名ですが、親族構造の分類にも二進法を使えるんですね。
物事をどこで区切り、何通りの組み合わせで表現できるか、というのは数学的には組み合わせ論の範疇に入るものですが、言葉を対象に考えれば言語学になるし、色々な国の文化を対象に考えれば文化人類学ということになり、時系列を対象に考えれば歴史学になるでしょう。
学問というものが、いかに「対象を分ける」ことによって成立しているものであるかということが見えてきます。
「分ける」ことによって「分かれる前のもの」を理解するというとき、「分ける」という行為そのものが行為以前と以後の対象に関する認識の状態を隔てる契機になっています。
一度分けてしまったら、もう分ける前のままで見るということは難しくなります。しかもやっかいなのはその「分け方」というのが、「他人の分け方」を盲目的に取り入れるだけである場合が多いということです。
もしそうなら、自分にとっての世界と信じ込んでいるものは、実は他者が作り上げた「自分にとってのリアリティーと結びついた作品」に過ぎないのかもしれません。ここで言う「他者」には親や知人友人、メディア、或いは一つの社会集団そのものなどが当てはまります。
自分のものだと思っている世界についての認識に著作権はありません。
……それはそうとドラえもんのこの歌、歌詞に深い意味を感じて、個人的にはかなり上位にランクインしてます。