情報と時間

 近頃、情報と時間の関係について考えることが多くなった。それぞれの情報は、その属性に応じて、必要とする人へ届けられるべき「タイミング」というものがあるが、現在のインターネットはそういうところがうまく設計されていないのではないかと感じることがある。リアルタイムの情報はどんどん忘れ去られ、アーカイブはほとんど活用されていない。それは新聞を読んだりニュースを読む人が多くても、図書館へ足を運ぶ人が少ないことから推してもわかる。ネットであれば解決する問題とも限らない。

 TwitterFacebook、ニュースサイトやRSSフィード購読では、個人の他愛ないつぶやきから近況報告、これからやろうとしていることの宣言、今のこの自分を認めてもらえないことへの不満、叙情たっぷりのポエム、どこかのサイトの記事のシェアなど、良くも悪くもあらゆる情報がリアルタイムに更新される。RSSフィードならば、記事を後からまとめ読みすることもできなくはないが、TwitterFacebookともなると、過去の情報はタイムラインの下へ下へとどんどん押し流されていくため、後からまとめて読むのが面倒だ。ニュースアプリともなれば、そもそも「後からまとめて読むもの」としては設計されていないだろう。例えば、Yahoo!ニュースはあとからまとめ読みができるが、Smartnewsは政治のタブや経済のタブなど、それぞれのタブにタイル表示される記事は時間に応じてどんどん変わっていくため、過去の記事を読むのには向いていない。もしも過去の記事を読みたければ、GizmodoならGizmodo、東洋経済オンラインなら東洋経済オンラインというように、それぞれのサイトを訪問する必要がある。もっともそこで読むことができるのは、それぞれのサイトごとの過去記事であって、他のサイトの過去記事を読みたければまたそのサイトを訪問し…ということになってしまう。

 ある問題があって、それを解決するのに必要な情報がまさに必要なタイミングでもたらされるためには、情報を共有するタイミングが重要だが、ある人が今日共有した情報が、他の誰かにとっては昨日必要な情報であったり、或いは1年後に必要な情報であったりということは十分考えられる。ではそれぞれの人がそれぞれ必要なタイミングで、必要な情報をうまく入手できるためにはどういう条件が必要であるか。

 例えば私は今日、こんな記事をSmartnewsで目にした。

j-town.net

 タクシーを降りるとき、もしも忘れ物をした場合にタクシーの番号が特定でき、その忘れ物を届けてもらえるため、レシートは受け取っておいた方がいいという趣旨の記事である。私はこの記事を19時過ぎに読んだ。別の人は朝、或いは仕事の合間、或いは電車に乗っているときに読んだかもしれない。しかしまさにタクシーに乗っているときにこの記事を読んだ人間はかなり少ないだろう。この記事がもっとも役に立つとき、つまりタクシーを降りる直前に、この記事のことを思い出しやすくするためには、タクシーに乗っているときにこの記事を読むのが最適であるにもかかわらず、である。

 ネットで公開されるそれぞれの記事をいつ読むかということは個人の選択の自由であるから、もちろんこの記事もいつ読まれるかは自由である。各自が時間のあるときに読めばいいだろう。しかしその一方で、それぞれの情報には知られるべきタイミングというものがあることも確かである。各自の選択の自由に任せておいて、タイミングがうまく合う保証はない。冒頭に「ネットであれば解決する問題とも限らない」と書いたのは、ネットであれリアルであれ、情報の入手とそのタイミングは各自の選択の自由に委ねられているからだ。自由であればよいというわけではない問題もある。タクシーのレシートを受け取っておくべきという内容の記事の場合、それをベッドで寝転んで読もうが電車の中で読もうが、彼女がトイレに立ったレストランの席で暇つぶしに読もうが、それは各自の自由だと考えるよりも、タクシーでレシートを受け取らず、かつ忘れっぽい人間は一律に「タクシーに乗っているとき」にこの記事を知った方がいいだろう。忘れっぽいというのは、「タクシーの中にものを忘れてしまうような」という意味だけでなく、「まさにこの記事を必要なタイミングで思い出すことが苦手な」という意味もある。

 ネット上の様々な情報について、それぞれの情報が閲覧されるべきタイミングを機械学習で学習させ、分類器で属性ごとに分類し、タイミングを分散させるというアイデアが浮かんだ。本が優れているのは、家にいれば必要なときにいつでも手にとって閲覧(ブラウズ)できるからだ。「確かこれについてはあの本に書いてあったな…」ということがわかりさえすれば、その本を手にとって必要な情報を見つけ出して活用することができる。ネットともなるとそうはいかない。Evernoteにどんどん記事を保存する人もいるが、必要なときに必要な情報を取り出すのに、Evernoteは本ほど最適化されてはいない。キーワードが思い出せればいいが、思い出せなければ該当記事はEvernoteの記事の海の中に沈んだままである。タグである程度の分類を行なっているとしたら、毎回毎回タグの分類を行う手間が生じる。それを手間と考えない人間ならばそれもいいだろうが、万人向けではないことは確かだ。タグの分類基準が変わることもある。

 そういうわけで、やはり機械学習の技法に習熟して、情報と時間の関係を最適化した仕組みを作ってしまう方が効率がよいということになりそうだ。

クリスマス

 久々の投稿になる。前回の投稿から何冊か本を読んだり、考えたりしたこともあったが、特に文章にしたりはしないまま、27歳だった私は誕生日を迎えて28歳になり、気づけばもうクリスマスである。

さて今年のクリスマスイブは去年とは違い、あえて仕事を休んだ。休みをもらうとき、「彼女?」と勘繰られたりもしたが、そういうわけではない。Twitterでもつぶやいたが、恋人でもいないと仕事を休めないのかと思わないでもない。私の場合、個別指導の塾で中高生を相手に授業をしており、この時期ともなると中学や高校は冬休みに突入している。だから通常授業に加えて冬期講習が入ることもあるし、とりわけ受験生ともなると、年末年始の時期は重要だ。そんな中でクリスマスイブに休みとはなんたることか、という考え方もないではないが、私はそれでもあえて休みを取った。

 去年は普通に仕事を入れていて、いつもよりも早い時間帯から授業をしていたと思う。そしていつものように電車に乗り、特にケーキやチキンなども食べずに、なんとなく「クリスマスだなぁ」としみじみ思いながらTwitterを眺め…という、そんなクリスマスだったように思う。

 今年はといえば、特にクリスマスに予定はなく、強いていえば日曜だったので、青山のBLENZコーヒーで読書をしながら来るはずのない人を待とうかと思ったりもした。クリスマスの一週間以上も前からそう思っていたが、結局実行せず、私は特にどこへも出かけなかった。夜になってから近くのコンビニへ行ったくらいのもので、クリスマスプレゼントなども特に買わなかった。

 しかしそれでも、数日前にAmazonで注文した洋書のうちの1冊が12月26日に届くことになったというメールを受け取っており、強いていえばそれが1日遅れのクリスマスプレゼントと思うことにした。恋人でもいればもう少し違った気分で過ごすことができたのかもしれないが、何しろ今の自分には出会いなど全くない。何より経済的には未だに自立すらできていないのだから、恋人よりも先にまずはどこかの企業に正社員として就職し、奨学金の返済や年金を払ったりしなければならない。

 

さて、もう26日だ。今日は12:00から授業があるため、10時には家を出なければならない。それまでに洋書が届けばいいのだが…。

 

視力

 比喩的にも文字通りの意味でも、目の悪い自分に比べれば、作家や画家やアニメーターや、映画監督やデータサイエンティストといった人たちの目の方が、何かについてよほどよく見えているんじゃないかと感じることがある。

 たとえば自分に見えている「東京」よりも、こういう人たちの見ている「東京」に触れる方が、東京がよく見えるのではないか、と。

 その一方で、目が良くなりたいという願望も消えず、「この人の目は良いに違いない」と自分が信じられる人のその「見え方」を、よく考えるようにはしている。何を見ているのか、何をあえて見ないのか、どんな角度から、どんな位置から、どんな範囲を見ているのか、網膜には何が写り、脳には何が映るのか。網膜には100の事柄が写っていても、見え方の型を身につけた人は、見るべきところだけを選択的に見て、それ以外はあっさりと無視する。見方にメリハリがあるといってもいい。

 また、しゃべったり書いたりすれば、その人が何を見たのか、何を聞いたのか、どんなことを感じ、考えたのかは、ある程度はわかる。

 昨日は大崎駅の近くにある、スタバとツタヤが併設されている書店で、森見登美彦『聖なる怠け者の冒険』を買った。帯に「三年ぶり待望の文庫化!」とあるので、この作品は2013年のものだ。当時の森見さんは何を見ていたのか。それは作品をよく読めば見えてくるはずだ。そこにどんな問題が見えるか、どんな京都が見えるのか。或いはどんな人間の姿が見えるのか。

 自宅に帰って読んだWIREDの記事には、Googleで働いてたトーマス・ミコロフが自然言語処理の革命的なアルゴリズムであるWord2Vecを開発し、そのコードを一般公開したのが2013年だということが書かれていた。これも2013年。一方では世界中の情報を整理して誰にとっても使い易いものにしようとするGoogleで働くミコロフが言葉をプログラムとして眺め、他方では京都を舞台に作品を描き続けている作家の森見登美彦の書いた若手社員の冒険の物語が単行本になっている。両者のあいだには、一見したところなんのつながりも見えない。けれどもどちらも、言葉を介して同じ年に表現されている。また彼らに限らず、2013年に生きていたそれぞれの人が、それぞれの関心に沿ってものを見て、何かを表現している。あるいはしつつあるということもあるかもしれない。或いはできずに悶々としているかもしれない。自分に見えているものをうまく表現することは、今でも難しい。

 最近はデザインやユーザーインターフェース、或いはインフォグラフィックに関する本を少しずつ買っている。Googleとは別の検索エンジン、或いはポータルサイトのようなものを作ろうと思い続けて今日に至っているが、それはどう表現すればいいのか、なかなかはっきりしないままだ。それは見えてはいるが、表現が難しいのか、それともそもそもよく見えていないのか。おそらくは両方なのだろう。よく見えておらず、しかも表現するための技術も今の自分にはない。なかなか困った状況だ。それでも誰かの書いた文章を読み続けることによって、色々な人の見ているものに触れ、インスピレーションを得ようとしている。

非父論

 道徳論を声高に主張する女性が抱く父へのイメージというのが、大体似通っているということを経験的な直観としてもっていたのだが、阿川佐和子さんが最近『強父論』という本を出しているのを書店で見て、ますますその直観に対する確信を強めた。

強父論

強父論

 

 

つまり、「強くて怖くて、でもやさしい父がいないから世の中おかしいんだ論」というジャンル。

 こういう主張をする人間は何も女性に限らないし、あまり言い募れば偏見の謗りを免れないのかもしれないが、その一方で道徳にうるさい女性が持っている父のイメージについては実際その通りではないかという印象が拭えない。そしてその傍証は次々と目にすることになる。もちろんこの発見の過程には私の確証バイアスが関わっているだろうし、いまこうして記事を書いている最中に記憶から思い出されることについては利用可能性ヒューリスティックが関わっているということもいえるだろう。

 また、何か問題があるときに「道徳的にはこれが正しい!そして後はそれをバシッと言えるリーダーシップの強い男らしい人間がいればよい」という論の立て方をしている人は、何も阿川さん個人に限らない。その意味では、上のような私の書き方は阿川さん個人への過度な責任転嫁をするつもりはない。単にそうした考え方をもっている女性の一人に阿川さんが含まれるのではないかと考えているだけだ。そしてちょっと注意深く見ていれば、そこかしこに同じ類型の論者を見つけることができる。

 しかし、そういう論じ方になってしまったらおしまいだと個人的には思う。道徳的に何が正しいのかなど、大抵の人間は一々言われなくてもわかっている。わかっていながらそれでもやっぱり問題を起こしてしまうわけで、「ではどうするか」というところから考え始めなければ話が前に進まない。

 「人を殺してはいけません」と恐くて優しい父が言えば殺人がなくなるほど、物事は単純ではないし、そんなことで解決した気になっているのだとすれば、人間をなめすぎだとさえ思う。「簡単ではない」とか「単純ではない」という表現は厄介で、本当はそうではない問題すら無駄に複雑にしてしまう危うさがある。そういう危うさには注意しつつも、依然としてやはり怖くて優しい父という主体に寄りかかりすぎであると私は考える。

 そもそも「父」的なものの典型的なイメージは、女性の社会進出と男女平等が制度の面でも社会通念の面でも前進*1し始めるより前の産物であって、その後はフェミニズムの潮流が生まれ、それに対するアンチフェミニズムも生まれ、最近ではいわゆる「LGBT*2もあったりで、時代錯誤感が否めない。

 性の認識について社会が変化した今、阿川さんが育てられたころとは状況がずいぶん異なり、もはや社会で起こる問題の責任を、父だけでは支えきれない。

 ちなみに私はこの本『強父論』を読んでいない。そもそも読む気になれない。おそらくは阿川さんの恐くて優しい父と、阿川さんの感動のエピソードがてんこ盛りなのだろうと思う。もちろん感動一辺倒ではないかもしれない。阿川さんの反抗期があり、そして後になって、父の厳しさや怖さの意味、その奥に潜む優しさに気付く…というような、そういう展開なのではないかと推測している。それを裏付けるためだけに読むくらいならば、はなから読みなどしない。裏切られるのであれば喜んで読むが、どうも裏切られる気はしない。私が何より違和感を感じるのは、そういう父に育てられた阿川さん自身が、一人の女性として父と同じ役割を担おうという意識がないのではないかと思われるからだ。本当に男女平等を考えるなら、女性が自分で何を担うのかということを書かないと、現代の性認識からは乖離しているように思えるのである。私が『強父論』を読まず、ここで勝手に推測した以上の「何か」が、この本の中で語られているという「期待」が持てないのだ。実際にそうか否かということは問題ではない。どんな本も、読む前の「期待」によって1ページ目、2ページ目…そして30ページ、100ページと読み進めるかどうかが決まるのだから。

*1:ここで「定着」とか「浸透」とか「普及」という言葉でなく、「前進」という表現を使ったのには理由がある。社会を見ていると今でも女性の社会進出が十分とは思えないし、男女差別は依然として存在しているからだ。しかしそれでも、前進はしているのではないかというのが私の認識である。

*2:LGBT」という言葉については、自分は違和感を感じている。この4文字で名指されるような人々が、「普通ではない」ということを暗に示していると感じるためだ。「LGBTの人々の立場」とか「LGBTの人々への配慮」という表現に、私は強い不信感を禁じえない。それはそう主張する人間の、「私たち普通の人々が、普通でないあなたたちもちゃんと認めますよ」というポジションを無自覚に宣言したものであるように思われるからだ。LGBTという表現の前に「いわゆる」という表現をつけたのもこうした理由による。

Siriたち、或いはGoogleたちについて

 iPhoneに標準搭載されている音声ガイドのSiriは、使えば使うほど利用者の要求にあった対応ができるように学習していく。しかし多くの人はそこまで辛抱強くSiriを使い続けることはないのではないだろうか。一部のヘビーユーザーたちのSiriは、とってもとっても賢いだろう。そして他の多くの、おそらくは大部分のライトユーザーたちのSiriは、ずっと聞き間違いばかりしている。そしてそのうち、全く使われなくなる。Stay SilentなSiri。

 これは何も音声ガイドの領域にとどまらない。昨年から人工知能ブームが続いている。機械にどんどんデータを与えれば、機械はどんどん学習して賢くなっていくとされる。日常的に色々なことをググっている人のGoogleは、そうでない人のGoogleよりもずっと賢い検索ができるようになっているだろう。ヘビーユーザーとライトユーザーのギャップ。AさんのGoogleとBさんのGoogleは、おつむが違うのだ。

 ある企業の機械学習と別の企業の機械学習の学習スピードの違いよりもむしろ、同じ機械学習を使っていながら、ヘビーユーザーとライトユーザーの間で機械の側からのレスポンスの質に違いが生まれていることの方が、もっとずっと本質的な問題ではないかと思うのだが、そういう指摘はネットでは見当たらない。ネットでは人工知能といえば相も変わらず、「我々人類の仕事は人工知能にどれほど奪われてしまうのか」をめぐる冷静な研究者と熱狂的に恐怖を垂れ流す評論家の対立、或いは「介護ロボットで日本経済は復活するかも」のような、国家の行く末を特定の技術進歩によって打破しようといういかにも近代主義的な国民国家像を下敷きとする議論ばかりだ。世界の現実はグローバル化の方にある。

 さて本題に戻ろう。コンピュータをめぐる「デジタル・デバイド」というのであれば、FacebookユーザーとGoogleユーザーのギャップよりも、むしろFacebook内のライトユーザーとヘビーユーザーのギャップ、或いはGoogle内のライトユーザーとヘビーユーザーのギャップの方が問題だろう。なぜならそれは、個々の企業の方針の違いではなく、むしろ利用者の主体性によって、利用者たちが自ら生み出し拡大させているようなギャップであるからだ。何か気になることがあったときに、すぐにググる人のGoogleはどんどん使いやすくなっていくが、その場でパッと調べたりせず、「まあいっか」と流してしまう人のGoogleの精度はなかなか上がらない。もちろん協調フィルタリングによって、同じような類型の利用者どうしのデータの比較を通じたアップデートは進んでいるだろうが、ヘビーユーザーたちの精度よりは劣る。

 利用者がサービスからどれくらいの便益を享受できるかは、そのサービスをどれくらい使うかという利用者の主体性にかかっている。まるでポイントカードの割引サービスのようだ。しかし人工知能(正確には機械学習)を用いて展開されている主要なサービスの多くは、いわばこの「ポイントカードの割引サービス」自体がサービスの中核にある。それはアルゴリズムという形でサービスに体化されている。

 もう少し別の比喩を使うなら、これはいわば、手をかけた子どもが出世して親孝行するのと、放置した子どもがずっと親不孝のままであることの差に似ている。ヘビーユーザーの使うサービスは親孝行的であって、いやどんどん親孝行度を増していって、ライトユーザーの使うサービスは親不孝的であって、親であるライトユーザーはやがて、子どもを全く見なくなる。そんな光景が頭に浮かぶ。

 どんどん使ってください、そうすればどんどん使いやすくなっていきマスカラというマスカラが流行中のようだ。

 

 

※本製品の使いやすさは、マスカラを作っている当社ではなく、利用者皆様方それぞれの主体性、皆様方の自己責任によるところが少なくない点をどうぞご理解ください。

…という但し書きが、空中にふわふわと浮かんでいる。それはほとんど誰にも見えやしない。雲の中にいるときには、雲は見えない。クラウドの中に日常的に浸りきっている私たちは、クラウドがどんな姿をしているのか、ますます見えなくなってきている。

 これが、通販ではAmazon、検索ではGoogle、音声ガイドではApple、「友達」との交流とオススメによる情報収集ではFacebookというようないくつかのアメリカの大企業が自然と作り上げている「アーキテクチャ」の最も先端にあるものの本質である。

 誰にとっても見えにくいものがデバイドを生み出すとき、そのデバイドもまた誰にとっても見えにくい。しかしそのデバイドは、無視するにはあまりに根底的な変化をもたらしている。

出合った相手ではなく、出会い自体とどう付き合うか

 

アナロジーと等価性

 数学では、マイナスにマイナスをかければプラスになる。このことは環(ring)と順序(order)の基本性質から導かれる。この性質をネガティブ思考の反転に強引にこじつける人間がいたりする。しかしそういう考え方は安易なアナロジーに過ぎないと私は思う。アナロジーであることがいけないのではなく、安易であることがいけないのだ。

 このアナロジーが正しいかどうかとは別に、自分にとって確固たるものに思える何かを、自分の実存と結びつけ、それによって自分の実存も確固たるものにしようとすることがある。ここで実存とは、自分の生き方全体というような意味を指すと考えればよい。そういう結びつきが生まれるとき、数学や科学の概念を使ったアナロジーがよく利用される。そこでは数学も科学も、「私の実存を支えてくれるかどうか」というただ一点で、宗教と同じように機能する。その一点において、それらの中身の違いは消えてしまう。

実存から構造へ

 サルトルは、『弁証法的理性批判』を中心としたいくつかの著作において、人間の実存を根拠づけるものを探った。同書はレヴィ=ストロースの『野生の思考』で批判の対象となった。このようにしてフランスでは、実存主義は次第に構造主義へ移っていく。1960年代のことだ。サルトルレヴィ=ストロースも読まない者は、2016年に生きながら、ある意味では1960年代よりも以前のフランスに生きていることになる*1。こういうことは、個人のレベルでは至るところで起こっているだろう。時間や好奇心、あるいはチャンスがないことによって、2016年のこの世界には、1960年代を生きる者、1970年代を生きる者、紀元前を生きる者というように、一見同時代でありながら、その内側では実質的に様々な異なる時代を生きる人間たちが共存している。タイムマシンで過去に遡るまでもない。今この瞬間にも、世界は共時的であると同時に通時的でもある。

他の誰かが通った道 

 1960年代より以前のフランスに生きること自体が問題なのではない。そうではなくて、その後に人類はどう考えたか、どういう勘違いをしたのか、或いはどうやって袋小路から抜けつつあるのかなどについて知らないまま、無自覚に自分を過信して考えようとすることが問題なのだ。それは端的に言って、歴史を知らないということでもある。ここでひとつ種明かしのようなことをいうと、冒頭で「数学や科学の概念を使ったアナロジーがよく使われる」と書いたが、構造主義のあいだ、そういうアナロジーが次々に登場し、やがてそれに対して批判がうまれた。その象徴的な現象であったソーカル事件とそれに対する批判は『知の欺瞞』に凝縮されている。それでもマイナスにマイナスをかければプラスになるというようなアナロジーが今でも消えないのは、一体どうしてだろうか。壁や石が見えない者は、それを乗り越えることもできない。

歴史と出会い 

浪費と出会い

 現代人は時間がないというのに、とりわけ日本人はどこもかしこも働きづめで時間がないというのに、それではかえって時間を浪費している。浪費とは、何も生まないものに対して資源を費やすことだ。ここにある問題を抱えている人間がいて、その人間がキャンプへ出かけたとする。キャンプは楽しいから浪費でないと言うかもしれない。けれども、抱えている問題がキャンプでは解決しないなら、その問題からみればキャンプは浪費である。別の問題からみれば、キャンプが浪費でないといえるかもしれない。どの問題からみるかによって浪費かどうかが違ってくる。

 ハイデガーが「Das man」と呼んだ人間は、暇のない人間だ。Das manになりやすい労働環境、Das manから逃れにくい条件に生きる者にとっては、その限られた時間を浪費することはほとんど命取りに等しいとすら言える。自分の頭や同時代のヨコのつながりに重きを置くばかりでは、この浪費から完全には逃れられない。國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』で指摘されている論点である。

 確率的に決まる「出会い」は、過去と同じことを繰り返すのを避けるようにできているわけではない。出会いは、それが人であれ物であれ概念であれ、どうしても確率的にしか決まらないが、かといってそこに介入の余地がないわけでもない。出会いの確率的な条件を逆手に取り、出会わなそうな人間と出会う機会を作るという戦略もまた、多少の改善はあれ、根本的な解決には至らない。朝活や合コン、街コン、パーティーなどなど、確率的な出会いを生む制度を人間はいくつも作り出してきた。とはいえ、これらの制度を積極的に活用していくら色々な人間に出会おうと、知らないままであることが残り続けたり、知らないこと自体を知らないままであったりする状況から、根本的に自由であることはできない。

技術がもたらす出会いの形式

 その一方でFacebookでは、出会いは確率的でない。誰が紹介されるかは、それぞれのユーザーの交友関係から、アルゴリズムが自動的に決める。自分の知らない人間が「友達かも?」とタイムラインで紹介されれば、Facebookで偶然出会ったと感じるかもしれない。しかしそこにある偶然性はFacebook自体がもたらしたものではなくて、Facebookの外での出会いーリアルの出会いーが偶然であったことを反映しているに過ぎない。その偶然性をFacebookアルゴリズムが一定の手順で処理するプロセスの中には、偶然性は含まれない。

 この点はTwitterも同じで、あるユーザーをフォローした時に紹介される他のユーザーたちもまた、Twitterのシステムが確率的に選んだものではない。それもまた、自分が初めにフォローしたユーザーを、Twitterアルゴリズムの外側で、自分が確率的に選択した結果の反映であるに過ぎない。FacebookアルゴリズムTwitterアルゴリズムも、「他者との出会い」において確率的な要素を持たない。それは出会いをアルゴリズムで実現しようとすることに起因すると考える者もいるかもしれないが、必ずしもそうではない。アルゴリズムで確率的な操作を行うこともできる。ただ両者がそういうアルゴリズムを使っていないだけのことだ。

出会いとは別の道

 誰かとの出会いによって、自分が抱える問題の袋小路から抜け出せる場合ももちろんある。そういうことを描いたドラマや映画、漫画、アニメはたくさんある。しかしもしも、これまでに書いてきたように、FacebookTwitter、あるいは他の様々なマッチングアプリのもたらす出会いには限界があることがわかったなら、出会い以外の道もないのかを考えてみればいい。それは歴史を観察することではないか。出会いのあれこれ、ひとつひとつの出会いの良し悪しに一喜一憂することなく、落ち着いて歴史を観察すればいい。ここに出会いの限界を超えるための介入を行う余地があるのではないか。それは単に出会いを否定することとも違う。それはむしろ「出会い」との距離をうまく見積もり、出会い自体とうまく付き合うということだ。そのために、自分とは別の誰かが通った道を知らなければならない。

*1:サルトルレヴィ=ストロースも読まない者は…」というような書き方をすれば、それこそ2016年の日本においては、「上から目線」と呼ばれるかもしれない。しかし「上から目線」というフレームほど不毛なフレームもない。それを言って何がどう変わるのかを考えてみればいい。上から目線と言って相手を批判しても、何も変わらない。そしてこのフレームもまた以前からずっと「不毛なフレーム」としてあるものだ。歴史を知らないということはそういうことではないか。

入門の門の奥

 私は書店が好きで、特に何か特定の本を買うというわけでもないのに、毎日のように書店に行く。書店に行くと、そこに置かれている入門書の多さに驚く。いったい世の中には、どれほど多くの「門前」の人々が存在しているのだろうかと思わずにいられない。経済学の入門書、政治経済の入門書、歴史の入門書、文学の入門書などなど…。

 入門というのは、「門から中に入る」ということであって、入り方は色々ある。だから経済学の入門書であっても、人によってテイストが異なる。ある人は文学作品からの引用を通じて、ある人は基礎的な数学的概念の定義から、そしてまた別のある人は身近な経済の問題(アベノミクスや日銀の政策や、TPPや…)の解説からというふうに。

 何かに入門するときには、門から中に入ると、そこから先のコースが大抵決まっているものだ。それは道場でも、料理教室でも、大学でも変わらない。コースを定め、広く一般に共有可能なように全体の形を整えることが形式化ということの意味であって、そこでは各人が同じコースをそれぞれのペースで進む。そしてコースを進むにつれて、門の向こう側にあるものの景色の全体が、少しずつわかってくるものだ。大学の場合、それは学部レベルではまだ見えないままで終わることがほとんどだろうと思う。理系の人間は大学院まで進むことが多いのに対して、文系の場合は学部卒で即就職という状況だ。それ自体の批判には大した意味もないとは思う一方で、この違いが学問について個々人に与えるイメージの違いはかなり大きいだろうと思う。理系の人間にとっての学問と、文系の人間にとっての学問とでは、大学院というところまで進むか進まないかという点で考えても、景色の見え方に大きな差異があるのではないかと思われる。

 ところで、門から先がまだ存在しないのに、ただ門だけがあるということはあるのだろうか。つまり「問題」だけがあり、門を通って中に入っても、そこから先はどう進めばいいのかが入門者にはわからず、したがってそこに広がる景色の全体像もはっきりしない、ということが。

 私はここ数ヶ月間、ネットにおける人々の情報収集の形態を考え続けている。もう検索エンジン的な仕組みでは手詰まりだろうと個人的には思っている。Google検索エンジン部門のトップが人工知能が専門の人間に変わって久しいが、深層学習(deep learning)を使っても、人間による解釈が難しくなるだけで、それほどネットの風景が変わるとは思えないのだ。だから人工知能を活用するかしないかという考え方からいったん距離をとって、とりあえず人工知能は使わずに、人間が何かよいアルゴリズムを考えられないかと考えている。もちろんこれは、人工知能の研究が進んだ近年の過熱気味な人工知能礼賛ムードとは完全に逆行する立場である。

 けれども、Googleはどうもこれから先も「検索エンジン」にこだわり続ける様子だし、今の自分の技術では大したことはできないけれども、「どんなものを作りたいのか」について、なるべく具体的なイメージを作ろうとしている。

 私にとっては、「ネットの風景を変えるにはどうすればよいか」という問題に対する「門」は哲学(特に言語やテクストを主題とするようなタイプの哲学)や思想であるわけだが、問題はそれによってどんなことを、どんなふうに表現するのかという「方法」がはっきりしていないということだ。自然言語処理によって、というレベルまでははっきりしているが、それ以上の具体性がない。門はあるが、その奥には何の立派な建物もない。ただし私の頭の中には、まだおぼろげではあるものの、大きな景色が広がっている。哲学や思想という門を通ってみれば、自然言語処理という方法によって、ちっとも整理されている気のしない検索エンジンともうるさいばかりであまり楽しくもないソーシャルメディアとも全く異なる、何か新しいことができるという直観だけがある。

 人工知能のビジネスに携わる人々の間でも、近年では数学や哲学に対する関心が高まってきているようだ。数学であれば圏論、哲学であれば分析哲学言語学フッサールデリダなどの思想が注目されている*1言語学というときに、大抵はソシュールしか登場しないところに注目の「浅さ」を感じてしまうところもある。個人的にはチョムスキー井上和子、あるいは時枝誠記などに対する関心が彼らの間で高まると、もっと自然言語処理の研究は面白くなるのではないかと思っている。私自身は、最近は東浩紀を介してデリダの思想について考えたり、井上和子を通して生成文法の日本語研究への応用ということを考えたりしている。これらの関心が自然言語処理の特定のテクニックとうまく結びつけられるところまで行くことを願いながら、今も大崎駅の近くのスターバックスで、アイスココアを飲みながら『郵便的不安たちβ』(河出文庫)を読んでいる。

 立派な建物がなければ門を作ってはいけないなどということはない。奥に広がる景色の壮大さを信じてまずは門をくぐり抜け、そこには幾つかの「柱」らしきものしか見えなくとも、そこに立派な建物が建つことを信じられればそれで良い。それはある意味で、建築家的な態度でもあるかもしれない。

 門の奥で、どんなアーキテクチャがありうるのか、アーキテクトは考え続ける。

高校生に現代文を教えながらよい文章の構造について考える

 やや更新が途絶えていた間に2016年もすっかり夏に入り、私がアルバイトをしている個別指導塾では夏期講習が始まった。私はその中で、高校生に向けて現代文の読解の仕方について授業をしている。普段の授業では英語(それも英語の文法)ばかり教えている私が、なぜ夏期講習の期間には現代文を教えるのかというと、もちろんこれは、仕事であるという理由もあるが、それとは別の理由もある。つまり、最近の私の関心事である、自然言語処理や検索ということについてより深く考えるために、ふだん何気なく触れている日本語(主に評論だが、小説も含む)の文章の構造について、一歩引いたところから分析してみることが有効だと考えているからだ。

 塾では出口汪の現代文の問題集を使っている。出口メソッドは私が受験生だった2007年や2008年当時もある程度の人気を誇っていたが、今でも人気は続いているらしく、書店では数多くの出口現代文シリーズが売られている。

 さて、「出口メソッド」などとさらっと書いたが、これは基本的には文章全体の構造を記号化・チャート化したもので、分析の単位は「文章」(passage)全体だ。もちろん、「指示語や接続語に注意して読みましょう」というような、文(sentence)の単位での読解テクニックもないことはないが、そちらはあまりメインではない。そこで私は書店に行き、出口メソッドとは別に、文の単位で分析をすることで文章全体の構造を読み解くというタイプの方法論を提唱している参考書がないか探してみた。いくつかそういうものがあるにはあったが、どれも上述した指示語・接続語に注目するという域を超えるものではなかった。

 私はふだんの授業では英語の文法を教えている経緯もあって、生成文法分析哲学といった分野の本も何冊か読んできた。そこでは文という単位について、単に指示語や接続語の機能に注目するといったお粗末な分析にとどまらない、高度に形式化された体系が紹介されていて、学部時代に同じく高度に形式化された体系をもつ経済学を学んでいた私は、生成文法分析哲学、論理学、統語論などの分野の営みに対して、少なからぬ感銘を受けた。

 だから市販の現代文の参考書の解く「方法」に対しては、率直に言って物足りなさしか感じなかった。それは高校生や、20歳前後の浪人生を相手に書いているという事情があることはわかる。けれどそれにしたって、もう少し紹介できる方法があるはずだ。

 ちなみにこの物足りなさについては、市販の英文法の参考書についても感じてはいるのだが、それについてはここで詳しくは取り上げない。しかし「相」(Aspect)や「法」(modality)、あるいは「文法範疇」(grammatical category)くらいは取り上げてもいいんじゃないかと思う。実際に生徒にこういう概念を教えた方が、英語についての理解が深まるということを、私は何度か経験してきた。しかもその生徒というのは、別に偏差値70以上の一流校に通っているような秀才というわけでもない。それでもちゃんと通じたのだ。…とこれくらいのことは書いておこうと思う。

 さて、それでは市販の参考書の中に「きらめく何か」を見出せなかった私はどうしたかといえば、これはもう自分でやるしかないと思うに至り、現代文の参考書という範囲を超えて、「文体」について扱った本や動画(※基本的にはニコニコ動画の有料動画)を探したり、自分なりに文の形式化を行なったりした。具体的には英語で「構文」と呼ばれているものを日本語の中にも見出そうということで、例えば「なるほどX、しかしY」という構文の場合には、Xは飛ばしてYだけ拾えばよいといった、「内容」でなく「形式的な処理」の体系化を積み重ねている。文章というのは形式的な処理だけでどこまで読めてしまうものなのか、あるいはもっといえば、むしろ形式的な処理を通して読む方が、内容にこだわりながらじりじりと味わうような意識で読むよりも本質をつかめてしまうものだと私は考えている。それはまた、特定の人間の能力に属人化されない、技術(テクニック)ということの意味でもある。

 日本語の「構文」に注目しながら読んでいくという読解法は、構文の網羅が面倒に思われるかもしれないが、以外と構文の数は少ないと感じる。段落の分け方や文章全体の構成については、文章の筆者ごとに多様な個性があるとは思うが、構文に関してはそうでもなく、けっこう色々な人が共通の構文を使いまわしていると感じる。さきほど例にあげた「なるほどX、しかしY」という譲歩の構文も、変種として「もちろんXだろう。けれどもYなのである。」や「確かにXではあるかもしれない。しかしそうではない。むしろXとはYなのである。」のようなパターンがいくつかあるにはある。しかしその程度のバリエーションに過ぎない。この程度であれば、私の問題関心の根っこにある自然言語処理では十分に扱えるレベルだ。

 構文から読むことにこだわり始めて改めて感じたことだが、人は意味を追っているようでいて、実はそうではなく、特定の形式で表現されたものに後付けで「意味らしきもの」を投影して満足感を得ているに過ぎないのではないか。売れる本のタイトルには一定のパターンがあることや、twitter上で特定のハッシュタグによって共有される表現が、代入される単語が違うだけで表現全体の形式はひとつの構文に過ぎないという現象が継続的に起こっているのは、「大事なのは形式じゃない、意味なんだ。そこに感動があるのだ。」といった、ナイーブでセンチメンタルなこだわりへの具体的なアンチテーゼになっているように思える。

 そういうわけで、構文という切り口から、日本語の形式的で広く共有可能な読解法、あるいは私たちの日常に対して新たな示唆を投げかけるような、自然言語処理の可能性について、当分は考えていこうと思う。

ディスプレイと紙

 今日は以前から気になっていた喫茶店「三十間」にやってきた。今年(2016年)の1月19日にオープンしたばかりの店ということで、まだ半年も経っていない。もともと銀座にあるお店が青山にも出店したということのようで、店についてからその辺の事情を知った。

食べログのリンクはこちらで、

珈琲専門店 三十間 青山店

食べログ 珈琲専門店 三十間 青山店

Retty(レッティ)のリンクはこちら。

retty.me

 

 さて、お店にやってきたのが夕方だったこともあって、店内の照明はやや暗めに調節されている。紙の本を読むには暗いので、パソコンの画面を開いてブログの記事を読んだり、この記事を書いたりして過ごしている。バックライトで照らされた透過光ディスプレイでは、読む場所を問わない。極端な話、もしも今店が停電になったとしても、私はこの記事を書き続けることができる。

 しかし紙の本ではそうはいかない。紙の本に対して「ディスプレイ」(画面)という言葉はふだんは使わないが、パソコンのディスプレイとの対比のためにあえて使うと、紙の本は反射光のディスプレイだからだ。自分で発光するわけではなく、他のものの光を反射することによって、私はそこに記された文字列を読み取ることができる。パソコンのディスプレイはその裏側から光を発しているから、発光体である。だからそれは太陽と同じで、紙の本は月と同じだ。

 文章が記されたディスプレイが太陽的であるか月的であるかによって、私が活字に触れる経験の中身は変わってくる。周りが明るい日中であれば、大抵はどこでも紙の本を読める。もちろんパソコンのディスプレイに記された文章を読むこともできる。

 最近こんな記事を読んだ。

http://www.lifehacker.jp/2016/07/160705_brother_privioj983n.html

www.lifehacker.jp

 私もこの記事には賛成だ。ただし記事の中で指摘されている理由とは別の理由で。記事で挙げられている理由は3点ある。

①紙で読んだ方が理解度が高いという研究がある

②ディスプレイで書いた自分の文章をそのままディスプレイで読むのではなく、紙に印刷してから読むことで、執筆者から読者としての立ち位置に変わることができる

③印刷しているときに少し間があることで、気分を入れ替えることができる

 ただしどんな場合でも紙で読むことが正当化されるわけではなく、特定の条件の下ではディスプレイで読んだ方がよいこともあるという点は注意が必要である。詳細は記事の本文を参照。

 そして私が個人的に紙で読むことにこだわる理由は、単に発光体は眼によくないからだ。人間の目は発光体を直視するように適応していない。小学生の頃などに太陽を直視してはならないと教わったのに、私たちは本質的には太陽と同じ発光体であるディスプレイを日常的に利用している。これは一体どうしたことだろう。慣れや文化の力は強力だ。

 もうほとんどコーヒーがなくなってきた。併せて注文したチーズケーキもあと3口というところ。ここが踏ん張りどころだ。喫茶店でコーヒー1杯で粘りながら『ハリーポッター』を書いたというJ.K.ローリングを見習って粘らなければ…。

 さて、私は生活リズムとして、夜に外にいることが多い。したがって、夜にどこかの店で何かを「読む」としたら、大抵は店の照明が暗くなっているから、自然とディスプレイを見つめる方に決まってしまいがちになる。これは生活リズムを昼型に変えたり、夜でも照明の明るい店を選んだりすることによって解決することもできるが、それでは私の使える店の選択肢は減ってしまう。「店の照明をどこももっと明るく!」という主張をしたいわけではなく、私を取り巻く環境が、私の読書という経験一つをとっても少なからぬ制約を課しているその様をきちんと認識しておきたいと思ったのだ。こういうことはよほど意識していないと、自然と流されてしまうだけになってしまう類のことであるから、一人で落ち着いている時に省みるための時間が必要だ。ちょうどこの三十間のような、落ち着いた雰囲気の店などで。

 

 

 

 

文章の文法をもとめて

 Twitterに投稿したつぶやきをもとに記事を作ろうと思う。テーマは言葉の単位とそのルールについて。

 ある公式を使って問題を解けるかどうかは、根気よく学び続けられるかどうかという意味で「練習」の問題だが、まだ証明されていないことがらを証明して新たな公式を作るのには別の何かが要る。一般にそれは「創造性」などと呼ばれる。

 ある文について、それが正しく構成されているかどうかということは文法に照らして判定することができる。けれども文よりももう一つ上の単位である「文章」については、それが正しく構成されているかを判定する論理的な手続きが見当たらない。ここで「存在しない」ではなく「見当たらない」という表現を用いたのは、それが実際には存在しているかもしれず、単に私がそれを知らないだけである可能性があるためである。また一般に、何かが「存在しない」ということを示すのは難しい。

 文に関しては、句構造規則に沿っていろいろな操作を施すことができる。別の語を加えたり、語順を入れ替えたりするといった操作を有限回行うことで、あらゆる文が生成できる。試しに次の文を考えてみよう。なお、日本語の文法について私はあまり知らないので、馴染みのある英語の文法に沿って考えてみることにする。日本語の文法の方が理解しやすいという読者には申し訳ない。

文A:私は山田太郎である。

文Aの主語「私」を「吾輩」と入れ替え、補語「山田太郎」を「猫」と入れ替えるだけで、

文B:吾輩は猫である

という別の文を生成することができる。こうして私は、自分の生成した文から、別の誰か、この場合は漱石が過去に生成した文を生成することができた。これと同様にして、私は文Aから有限回の操作によって任意の文を生成することができ、シェイクスピアだろうとドストエフスキーだろうと村上春樹だろうとそれは生成可能だ。文を変形して別の文を生成することはあまりないから、村上春樹の生成する文を私が作るのには「練習」が必要だろうが、論理的には可能であると思われる。それはつまるところ、有限回のステップのうちに収まる文の変形操作のアルゴリズム(手順)を見つけられるかの問題に過ぎない。

 また文Bは単に「文」であるだけでなく、本のタイトル(夏目漱石の小説の題名)でもあるから、一つの名詞として使うことができる。つまり

文C:あなたは [n](名詞)を読んだ?

という疑問文の[n]の部分に「吾輩は猫である」という文(文B)を代入することができる。また、自動詞「である」を他動詞「を許す」と入れ替えると、

文D:私は山田太郎を許す

という文が作れるし、動詞「許す」をその否定形である「許さない」と入れ替えると

文E:私は山田太郎を許さない

という、文Dとは反対の意味を表す文を生成することができる。

 このように、文の単位では、その内側で語や句や節といった部品がどのように並ぶかということに関して、一定の統語的な規則が存在する。日本語の場合は英語やフランス語などや中国語などの外国語に比べて統語的な規制がゆるいため、自然言語処理においては、チョムスキーの手による句構造文法よりも、フィルモアによる格文法を用いて考える方が扱いやすいそうだ。

 文章の生成については、「文章作成法」とでも呼ぶべき分野が古くから存在していて、ビジネス文書や小説の書き方から、最近ではブログの書き方に至るまで、いろいろなものがあるが、どれも科学的ではなく、著者の個人芸の域を出ないものが少なくない。三島由紀夫*1谷崎潤一郎*2野口悠紀雄*3本田勝一*4、或いは古くは空海の『文鏡秘府論』など、多くの著名な人物がそれぞれに文章の書き方、構成法について説いているが、それらは現実の文章がどのようなルールによって構成されているかということを説明するものではなく、この意味では文法ほどの形式化は進んでいない。或いはもう少し別のもので言えば『理科系の作文技術』*5や『日本語のレトリック』*6といったものもあるが、やはり文法ほどの形式化はなされていない。レトリック(修辞学)というのは、文を操る技術という意味では文章を外から規定する形式といえなくもないが、文にとっての文法の関係と、文章にとってのレトリックの関係は同じではない。

 Twitterのツイートやブログでの情報がデマ(誤情報)であるかどうかを判定する方法に関する、自然言語処理の分野での研究*7がある。これはある一定量の文ないし文章について、その属性を判定するものであるが、これは手がかりになりそうだという気がしている。

 またこの研究とは別に、『文体の科学』*8という本を読み始めた。いかにも自分が考えたいことにぴったり当てはまる内容ではないかと思いながら読み進めているが、どうも少し違うような気がしてきた。ここで読み続けるかどうかという判断を迫られている。一応読みきろうと思う。

 

【追記】

『文体の科学』は途中で読む気が完全に失せてしまった。ちっとも科学になっていないからだ。もとになっているのが雑誌の連載という事情があるにせよ、タイトルと中身の齟齬が大きい。速読とは読むべき本とそうでない本とを素早く区別するための方法であるとするならば、速読が役に立ったと言えるかもしれない。少なくとも今の自分の問題関心では読むべきでないと感じた本に、それ以上の時間をかける気にはなれない。

 

*1:

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

 

 

*2:

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

 

 

*3:

「超」文章法 (中公新書)

「超」文章法 (中公新書)

 

 

*4:

日本語の作文技術 (朝日文庫)

日本語の作文技術 (朝日文庫)

 

 

*5:

 

*6:

日本語のレトリック―文章表現の技法 (岩波ジュニア新書)

日本語のレトリック―文章表現の技法 (岩波ジュニア新書)

 

 

*7:鳥海不二夫、篠田孝祐、兼山元太「ソーシャルメディアを用いたデマ判定システムの判定精度評価」[2012]

*8:

文体の科学

文体の科学