非父論

 道徳論を声高に主張する女性が抱く父へのイメージというのが、大体似通っているということを経験的な直観としてもっていたのだが、阿川佐和子さんが最近『強父論』という本を出しているのを書店で見て、ますますその直観に対する確信を強めた。

強父論

強父論

 

 

つまり、「強くて怖くて、でもやさしい父がいないから世の中おかしいんだ論」というジャンル。

 こういう主張をする人間は何も女性に限らないし、あまり言い募れば偏見の謗りを免れないのかもしれないが、その一方で道徳にうるさい女性が持っている父のイメージについては実際その通りではないかという印象が拭えない。そしてその傍証は次々と目にすることになる。もちろんこの発見の過程には私の確証バイアスが関わっているだろうし、いまこうして記事を書いている最中に記憶から思い出されることについては利用可能性ヒューリスティックが関わっているということもいえるだろう。

 また、何か問題があるときに「道徳的にはこれが正しい!そして後はそれをバシッと言えるリーダーシップの強い男らしい人間がいればよい」という論の立て方をしている人は、何も阿川さん個人に限らない。その意味では、上のような私の書き方は阿川さん個人への過度な責任転嫁をするつもりはない。単にそうした考え方をもっている女性の一人に阿川さんが含まれるのではないかと考えているだけだ。そしてちょっと注意深く見ていれば、そこかしこに同じ類型の論者を見つけることができる。

 しかし、そういう論じ方になってしまったらおしまいだと個人的には思う。道徳的に何が正しいのかなど、大抵の人間は一々言われなくてもわかっている。わかっていながらそれでもやっぱり問題を起こしてしまうわけで、「ではどうするか」というところから考え始めなければ話が前に進まない。

 「人を殺してはいけません」と恐くて優しい父が言えば殺人がなくなるほど、物事は単純ではないし、そんなことで解決した気になっているのだとすれば、人間をなめすぎだとさえ思う。「簡単ではない」とか「単純ではない」という表現は厄介で、本当はそうではない問題すら無駄に複雑にしてしまう危うさがある。そういう危うさには注意しつつも、依然としてやはり怖くて優しい父という主体に寄りかかりすぎであると私は考える。

 そもそも「父」的なものの典型的なイメージは、女性の社会進出と男女平等が制度の面でも社会通念の面でも前進*1し始めるより前の産物であって、その後はフェミニズムの潮流が生まれ、それに対するアンチフェミニズムも生まれ、最近ではいわゆる「LGBT*2もあったりで、時代錯誤感が否めない。

 性の認識について社会が変化した今、阿川さんが育てられたころとは状況がずいぶん異なり、もはや社会で起こる問題の責任を、父だけでは支えきれない。

 ちなみに私はこの本『強父論』を読んでいない。そもそも読む気になれない。おそらくは阿川さんの恐くて優しい父と、阿川さんの感動のエピソードがてんこ盛りなのだろうと思う。もちろん感動一辺倒ではないかもしれない。阿川さんの反抗期があり、そして後になって、父の厳しさや怖さの意味、その奥に潜む優しさに気付く…というような、そういう展開なのではないかと推測している。それを裏付けるためだけに読むくらいならば、はなから読みなどしない。裏切られるのであれば喜んで読むが、どうも裏切られる気はしない。私が何より違和感を感じるのは、そういう父に育てられた阿川さん自身が、一人の女性として父と同じ役割を担おうという意識がないのではないかと思われるからだ。本当に男女平等を考えるなら、女性が自分で何を担うのかということを書かないと、現代の性認識からは乖離しているように思えるのである。私が『強父論』を読まず、ここで勝手に推測した以上の「何か」が、この本の中で語られているという「期待」が持てないのだ。実際にそうか否かということは問題ではない。どんな本も、読む前の「期待」によって1ページ目、2ページ目…そして30ページ、100ページと読み進めるかどうかが決まるのだから。

*1:ここで「定着」とか「浸透」とか「普及」という言葉でなく、「前進」という表現を使ったのには理由がある。社会を見ていると今でも女性の社会進出が十分とは思えないし、男女差別は依然として存在しているからだ。しかしそれでも、前進はしているのではないかというのが私の認識である。

*2:LGBT」という言葉については、自分は違和感を感じている。この4文字で名指されるような人々が、「普通ではない」ということを暗に示していると感じるためだ。「LGBTの人々の立場」とか「LGBTの人々への配慮」という表現に、私は強い不信感を禁じえない。それはそう主張する人間の、「私たち普通の人々が、普通でないあなたたちもちゃんと認めますよ」というポジションを無自覚に宣言したものであるように思われるからだ。LGBTという表現の前に「いわゆる」という表現をつけたのもこうした理由による。