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一度通った道が見つからないということ

27歳 メディア 内省 情報科学 日常 東京 神経科学

 日曜日の夜だ。京王井の頭線の改札近くのスタバで英語の文法の勉強をしていたのだが、途中からなんだか眠くなってきて、パソコンを開いた。ちょっと最近考えていることを書いてみようと思う。インターネットと記憶について。

 インターネットを使って何かの記事を読んだ後、しばらくして同じ記事を再び読み返したくなることがある。「そういえば最近そんな内容の記事を読んだな…なんてタイトルだったっけ?」と思い、それらしい単語を検索ボックスに打ち込んでみたり、FeedlyEvernoteに保存してないか確認したりしても、肝心の記事は見つからない。

 一度通ったことのある道なのに、再び同じ道を通ろうとしても違う道になってしまうという経験をしたことはあるだろうか。私は家の周りや出掛けた先の街で、あちこちを歩き回ってみるのだが、一度通った道をなぞろうとして、結局は以前とは明らかに違うところへ行き着いてしまうということがある。もちろん職場と家の間で道を間違えるなどということはないし、お気に入りの書店や喫茶店へ行く道を間違えることもない。そういうコースを辿るときは、一度目と二度目の間にあまり時間差がなく、その後も反復する回数が多いからだ。やがて道を完全に覚えてしまう。そして何も考えていなくてもその道を初めから終わりまでなぞることができるようになる。

 インターネットでも新聞でもいい。私が目にする記事の多くは、何度も読み返すということはほとんどない。だから、最初に読んだ時には内容を覚えていても、時間とともにそれは色あせてしまって、次にその記事を必要とするときになって、簡単に見つけ出すことができないのだ。それらは私の外側にあって、私の体と一体化していない。自転車に乗るように記事を使いこなすようなレベルには達していないうちに、私は記事を忘れてしまう。

 最近Twitterの使い方を変えてみた*1。しかしタグを活用しても、私は特定の使い込まれた知識を瞬時に思い出すことと比べると、まだまだタグ付けされた情報を使いこなせている感じがせず、どこかもどかしさを感じる。何より、使いこなされた知識というのは、どんどん使いやすく変化していくが、ツイートに付けたタグとツイートの内容は変化しない。一度投稿してしまえば、1年後も3年後もずっとそのままだ。まるで私の考え方はその間で何も変わっていないかのように。ブログやFacebookであれば、一度投稿した内容を後から書き換えることができるから、使いこなせている知識と同様に柔軟に変化させていくことができるが、Twitterのツイートではそうはいかない。ツイートを削除することはできても、内容を後から変更することはできない。それはある意味では、文を書くことに慎重になるという効果をもたらすけれども、私の頭の中にある知識の体系を改良していくことには向かない。

 同じことを何度も何度も繰り返し再現することによって、記憶は記憶たりうる。再現できなくなってしまったら、もう記憶ではない。私の頭の中にある知識はいつでも手軽に思い出して使うことができるけれども、ネット上の情報はそうはいかない。もちろん私はほぼいつもiPhoneを持ち歩いていてネットが使える状態ではあるが、頭の中にあることを思い出すようにネットを使うことはない。

 すっかり目がさめた。ディスプレイのバックライトのせいだろうか。或いはタイピングという手の運動のせいだろうか。英語の勉強に戻ってもいいのだが、その前にこの記事を書き終えたい。

 何か覚えたことを再現するとき、単に頭の中で思い返すというだけではなくて、私は手を使ったり足を使ったり、身体を同時に使っていることが多い。フォン・ノイマンやマリリン・ボス=サバントのような天才であれば、ただ頭の中で思い浮かべるだけで覚えたことを自在に使いこなせるようになるのかもしれないが、私の場合はそうはいかないことが多い。問題集を使って問題を解きながら、覚えたことをどう使うか考えたり、実際に道を歩いてみたり、誰かに説明してみたりすることによって、そして何より、そういうことを反復することによって、覚えたことを有用な知識として定着させることができる。

 記事の内容を覚えても、私はたいていの場合、その内容を身体を使って再現することがない。たまには誰かにその内容を説明することもあるが、20本の記事を読んで1本あるかないかという程度の割合でしかない。残り19本の記事の内容は忘れられていって、誰かに説明した1本の記事の方も、やがて忘れられる。私の脳内のシナプスは、それらの記事の内容を再現することができなくなるのだ。

 私はもう何年も、紙媒体の新聞を購読していない。たいていはネットで記事を読んで済ませている。だから私にとって「記事」といえば、紙媒体で購入している雑誌のそれか、大部分はネット上のそれを指す。どちらにしても、私の身体とあまり結びつかないまま私の頭の中から消えていく。

 私の家にある紙の本たちは、必要に応じていつでも読み返すことができる。それは物理的にそこにあり、読み返せば以前にそれを読んだときの記憶が微かであっても蘇り、私の知識の体系は変化していく。ネット上の記事に紙の本と同じような「見つけやすさ」を与えることは、未だに実現されていない。Googleは1998年に誕生してからもうすぐ20年が経つが、未だに私の家の本の調べやすさには及ばない。情報が膨大すぎて、いくら索引をつけても一向に見つからない情報だらけなのだ。瞬時に見つからなくてもよい。0.1秒台で100万件の「関連する」記事を一覧にして表示されても、3分かけて「私が探していた本は確かにこれだ」にかなわない。

 一体何が足りないのだろうか。

 

参考:

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)