command+R

 私が使っているMacBook Airでは、command+Rで「Refresh(ページ更新)」を行うことができる。ブログのアクセス解析のページを開いていて、ちょっと時間が経ったときに、アクセス数が増えたかを確かめるときにこのコマンドを使うことが多い。コマンドを入力すると、ページは再び読み込み直され、最新の情報がディスプレイに表示される。アクセス数は増えているか、或いはそのままのどちらかだ。日付が変わったときなどは、ゼロになることもある。日付が変わればカウントは仕切り直しだ。

 ページ更新を行うとき、コンピュータの内部ではサーバー上にあるデータを参照するリクエストを新たに送って、サーバーの側から読み込みたいウェブページの最新の状態を記述した情報を受け取る。その際、古い情報は破棄され、忘れ去られる。少なくとも、私が目にしているディスプレイの中からは。ページ更新を行う前に、ディスプレイに何が表示されていたのか、そのことを私が忘れてしまったら、痕跡を見つけるのは困難になる。探偵が真相を暴き出すのに苦労する難事件と同様、迷宮入りへと向かうと言ってもいいかもしれない。

 ページを更新することによって、そこには新しいものが表示されることになるけれども、それでは「新しい」とは何だろう。何をもって新しいもののその新しさを確かめることができるのかと言われれば、それは必ず、古いものとの比較によってである。だからもしも、古いものを忘れてしまったならば、新しいものの何が新しいのか、或いはそもそも新しいものが新しいとは思われないということもあるだろう。古いものを記憶していないという、いわば準備不足によって、これまでに一体いくつもの新しいものたちが、その新しさに気付かれることなく迷宮入りしていったのだろう。もちろん迷宮入りした事件を、探偵が考古学者宜しく掘り起こし、光を当て、真相を白日の下に晒す場合もあるが、そういうことは滅多に起こらないからこそ、推理小説に高い価値が与えられるという皮肉な状況がある。だから、逆にこの皮肉を起点にして、現実へ向かって考えを辿っていけば、それはやはり滅多に起こらないのだということが、確認されることになるだろう。

 古いものというのは、「過去のもの」と言い換えてもいい。過去に何があったのかを記憶していないで、まるでそれがなかったことの様に、歴史をあっさりとすり抜けて済まそうとする人というのがいる。そういう人がかえって新しいものを生み出すということもあるし、それは例えば折口信夫に引きつけていえば、貴種流離譚に表されるような、共同体の外部からやってきた者が変革をもたらすという形式で民話の中に描かれていることもある。折口はその様な外部の存在を、「賓」(まれびと)と呼んだ。

 command+Rを押す時、ページは更新される。その時に新しい情報は、何からもたらされるのか。サーバーからであると、先ほどの素描にも至らぬ素描風の説明からは答えが返されるようだけれども、それではそのサーバーに情報を書き込んだのは誰かと更に問われれば、それはブログの場合には、他でもない私であるし、或いはブログ以外のウェブページも視野に入れて考えれば、インターネットに接続したどこかの誰かということになるだろう。どちらかといえば、ページの更新をするのは他者の作ったウェブページであることの方が多いという実情を考えれば、それはどこの誰かもわからない他者だ。それではその他者とは、私にとって共同体を同じくする他者だろうか。私たち、或いは我々と一人称複数で括って違和感を感じない他者だろうか。それを判断するための材料を、私はネットという空間の中に見いだすことができるだろうか。例えば爪の状態から、その者の職業をピタリと当ててしまう探偵の様に。もしも言語の壁が完全に取り払われたならば、或いは少なくともそれを意識せずにインターネットを使える様な状態になれば、私はインターネットの中で、ページの情報を書き換える他者が、共同体の内部にいる他者か、それとも外にいる賓的な他者かを判別することが困難になる。もちろんここには一つの前提があって、共同体というものを広く地球全体、グローバルに想定すれば、それはもはや問題にならない。しかし、単にグローバル化という言葉をスローガンの様に掲げるだけで、我々の意識が地球規模に変容した様に感じるのだとしたら、それはどこかに誤魔化しや飛躍があるのであって、例えば私が、学校や職場でやりとりする他者の、さりげない一言や仕草の中に、私との共通性や差異を発見して、その瞬間に一人称複数の「我々」として、私とその他者とを一括りにする、あの感覚とは違っている。

 command+Rを押す時、私は我々への回路がほんの微かに見えた様な、その痕跡に辛うじて触れた様なそんな感覚を抱く時がある。それはいつもではなくて、頻度でいえば100回に9回というくらいのものだろうと思っている。それは一つには、その痕跡自体があまりにも微妙で感じ取りにくいためであるということがあり、また一つには、私自身が独りでいようとする気質を持っていて、「我々」を感じようとする意識が薄いためでもあるのだろう。後者の方は、端的に言い換えれば、集団行動が嫌いだとか、集団が熱狂しているのが嫌いだとか、パーティーが嫌いだとか、そういうものと一続きになっているような感覚だろう。中高生というのは、こういうことに極めて敏感であって、その敏感さが生み出した言葉が「インキャ」*1ということだとしたら、インキャの感覚に分類される様な代物ということになるのだろう。それが中高生的感覚に沿って分類される人間性の類型なのかもしれない。

 しかしそれでも、私は我々を望むところが希薄でありながら、その一方で新しいもの好きであるという性質も兼ね備えて生きている。だからどうしても、これまでにどんなものが現れたのかということ、古いものや過去のものを意識せずにはいられない。そういう条件付けの下に生きざるを得ない。コンビニで新商品を発見した時、私はその度、過去にこの商品を見た覚えはないと一度確信した後でしか、その商品の新しさを感じることはできない。その手続きを経る時に、私はどうしても過去の商品、古い商品を思い返さずにはいられない。それはほぼ100%、私ではない他者が、過去に生み出したものだ。ここで私は、他者との接点を持たずに自分を満足させることができないという自分のコンディションを、再確認させられることになる。そして私は、どうしても歴史ということを避けて通ること、或いはなかったことにして前だけを見て進もうとする歩みが不可能であるということを、強く意識する。

 私が次にcommand+Rを押す時、私はどんな他者、どんな過去、どんな古さを通して、どんな新しさへの可能性に触れることになるのだろう。

*1:「陰キャラ」(陰気なキャラ)の略。クラスであまり目立たない、イケてない人のキャラを指して使う言葉。