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ツインテールのリアリズム

 井の頭線の渋谷駅の改札を通って山手線に乗り換える途中、ツインテールの女子高生が、自分の三歩ほど先を歩いていた。私はそれを見て「高校生にもなってツインテールはどうなのか」と感じた。それがこの省察の起点であって、私はツインテールやオタクファッション、或いは竹内一郎『人は見た目が9割』といった類の、いわば「外見本」とでも呼ぶべきジャンルの書籍とリアリズム(写実主義)との関係について考え始めた。

 リアリズムということを、人々はどれほど自覚的に捉えているのだろうか。そう思ってTwitterで「リアリズム」という単語のツイート検索を行ってみた。予想に違わず、あまり多くはない。研究者や、一部の思索的な傾向の強い人々のツイートがほとんどであった。現代社会において、リアリズムとは意識的には存在していないものなのかもしれない。

 それでは、リアリズムが事実上もはや絶滅したかと言えばそんなことはない。いや、むしろリアリズムは、自覚されていないだけにかえって一層存在感を増している。抑圧されたものは、一度外へ現れるようになると、抑圧されない場合よりもかえっていっそう表出される。少し社会を観察してみると、リアリズムは至る所に無自覚に、或いは無反省的に散らばっている。それは人々にとって、日常性の主要な一部ですらある。それは意識の側よりも、むしろ無意識の側にある。だから自然言語処理やエージェントベースモデルなどの工学的なアプローチの対象にもなりうる。

   数年前から、他者の内面を外見から判断することを説く書籍が増えたように思う。私が覚えている限りでは、その原点は竹内一郎『人は見た目が9割』*1であり、同書の後にも、それに類するテーマの本が継続的に出版され続けている。ところでこれは文学における「写実主義」の原語である「realism」(リアリズム)の定義に他ならない。写実主義が日本に紹介されたのは、明治初期に登場する坪内逍遥の『小説真髄』*2においてであった。文学には理想や目的はなく、ただありのままを描くことが文学であると坪内はいう。そこに彼の西洋かぶれ的な意識を見て取ることもできないではないが、そういう側面を考慮しても、『小説真髄』による写実主義の紹介以降の日本文学の展開を見ると、それが最後には自然主義へと向かうことまで含めて、写実主義のもたらした影響は小さくない。そしてそれは文学の世界の内側にとどまらず、今でも人々の日常性の一部をなすほどに影響を持ち続けているのである。

 内面や本質というものが、その人の外見的な特徴となって現れる。だからその人の外見を丁寧に描くことによって、内面や本質を描き出すことができると考える立場が、少なくとも文学における写実主義である。 私たちは日常的に、他者の外見からその人の内面を推定する。ヨレヨレのスーツは内面のだらしなさの象徴であるという、ある社会的な共通感覚が人々の深層にあるからこそ、男性ファッション誌や「俺のダンディズム」のようなドラマが評価される。

 ずいぶん以前に、シャーロック・ホームズについて記事*3を書いた。写実主義と推理とは相性がよい。つまり、どちらも本人に直接尋ねることなく、その人の外見的特徴から内面を捉える営みとしてある。靴についた泥から依頼主がどこから来たかを推理するのは、歪んだネクタイから内面のだらしなさを推定するのと、ほとんど変わらない。「ほとんど」と書いたのは、単にホームズへの配慮であって、彼にいわせればこの二つの間には大きな隔たりがある。つまり、ホームズの観察は論理的であり、また科学的でもあるが、ネクタイの歪みから正確のだらしなさを推定するのは推理でもなんでもなく、ただの定型化にすぎない、と。

 さて、外見が内面を表すということが、人々の間で共有されるようになると、それが反転する形で、外見を整えることによって、逆に内面の方をそれ相応に評価してもらえるだろうと期待する、反作用の心理がはたらくようになる。もちろん、人間の相互作用は、ゲーム論的な制約のもとにあるから、「そういう期待が働いている」という認識がプレイヤー全体に共有されると、写実主義は反転する。つまり、いくら外見だけでごまかそうとしていても、内面が伴っていない人間もいるということが次第にわかってくる。すると、外見だけで人間を捉えることはできないという立場へ反転していく。そしてそれは、ある価値判断とも結びつく。つまり「人間は見た目じゃない。中身が大事だ。」というのがそれである。

 

 私の三歩先を歩いていたツインテールの女子高生は、どんな内面を持つのだろうか。ツインテールの女子というのが、しばしば否定的に評価される。そのとき、評価を下す者はツインテールそれ自体を否定しているのではない。そうではなくて、ツインテールが象徴として否定的に捉えられているのだ。それは何の象徴か。それは、ツインテールの女子たちの内向的なあり方、他者に対して閉じているような態度、そしてまた、ツインテールが否定的に評価されているにもかかわらず、それでもなおツインテールでい続けるということに、空気の読めなさのようなものを見ているのではないか。これらの要素の象徴が、ツインテールという髪型ひとつに凝縮して認知されることによって、外見的特徴に過ぎないツインテールが否定的に語られるということになるのではないか。ここにツインテールのリアリズムがある。

 もっともそれがツインテールの女子の内面を正確に捉えることに成功しているかどうかは不透明だ。しかしこういう類のリアリズムというのは、コミュニケーションや対話というものが困難であると捉えられている状況の中では、流行しやすいのではないだろうか。そしてこうしたリアリズムが、偏見と容易に結びつき、それがまたさらなる閉塞感へと結びつくという連関をなしてはいないかと感じさえする。

*1:

人は見た目が9割 (新潮新書)

人は見た目が9割 (新潮新書)

 

 

*2:

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/4728/ss01.html

小説神髄 (岩波文庫)

小説神髄 (岩波文庫)

 

 

*3:

plousia-philodoxee.hatenablog.com