指と触覚から見るキーボードと手書き

 手書きは記憶に残りやすく、キーボードで書いても記憶に残らない」というのは、実は嘘*1なんじゃないかと最近感じることがある。自分にとってはどっちも大して変わらないように思えるからだ。それではどうしてそう思えるのかと言われれば、私にとってはキーボードが手とほぼ同じレベルの「器官」になってしまっているからだということになるだろう。

指の動きに注意をむける

 文字を書くとき、或いは文を或いは文章を書くとき、私たちは当然のように手を使う。もう少し正確に言うと、「指」を使う。それでは指の立場からみたら、キーボードと手書きではどちらの方が書くことに適しているのだろう。

 タイピングで一文字を、或いは語句を書くとき、ひらがな一文字で指は二回動かすだけ、語句であればひらがなから漢字への変換というワンアクションを含めて

(ひらがなの文字数)×2+1

の数のアクションで書き終わる。

 手書きでは一文字や一語に何画も使う。画数だけアクションがある。文字で表現するときに必要なアクションの数という基準で比べれば、キーボードの方が早いのは当然だ。だから頭の中で考えがどんどん文字に変わっていくタイプの人間はキーボードの方が向いているのだろうと思うのだ。私はそういうタイプだ。そしてそれを忘れないうちに、今もこうしてキーボードの上で指を動かし続けているのだ。頭と手の間のタイムラグが少ないから実に心地よいのだ。ただし、文字の場合に限る。*2

 私は大学時代の卒論執筆を通じて、タイピングのスピードが上がった。タイピングが遅かったときはパソコンを触るのも億劫で、手書きの方が早いと思っていたが、慣れてくると事情は変わっていった。最近では手で文字を書くことがめっきり減ってしまった。その間私は何万字、あるいは何十万字と文字をタイプしてきたことになるわけで、その経験を通じてキーボードが私の手と連動するひとつの器官のようになった。キーワードは「器官化」なのだろう。

 触覚の質はキーボードも手書きも大して変わらない。スマホフリック入力タブレットのタッチパネルは違う。あれは記憶に残らない。表現手段が器官化されるときには触覚が重要な意味をもっているということなのではないか。

テニスと文学青年

 自分がテニスで弱かったのは、練習不足もさることながら、プレー中に身体よりも頭が勝りがちな癖があったからではないか。文学青年は運動に向かないということなのかもしれない。意識的な思考が紛れ込むと、身体はうまく動かないというところがある。いろいろな例が思い浮かぶが、たとえば弓道で、矢を的に当てられるかどうかが心の乱れに左右されるように、テニスの打球や野球のピッチングやバッティングというのは、いかに無意識に、自動機械のように身体を動かせるかにかかっている。イチローが素振りをするのは機械的にスイングできるようになるためだろう。さらに卓球やバドミントンなどはその極限の世界だろう。あの世界の勝負で対戦中に意識的な思考を増やすのはプレーにとって邪魔なのだろうと思う。

 

 そしてそういう文脈で考えると、キーボードのタイプミスが増えるのは、雑念が混じって表現したいことと指との間にズレが生まれてしまうからなのかもしれない。

 このことを感じさせる例がひとつある。パソコンを起動するとき、キーボードでパスワードを入力する。そのときにタイプミスすることがあるが、そういうときはもしかしたら何か悩みがあるということなのかもしれないと感じることがあるのだ。それは悩みではないにせよ、なんらかの雑念が混じってしまっていることの現れなのだろう。精神統一して、明鏡止水の心持ちでタイピングの悦楽を享受したい。

 私にとってのタイピングは、書道のようなものだ。指を動かすこと自体が快感なのだ。それは手書きにも勝る、ピアノの演奏に近いパフォーマンスの悦楽なのだ。

*1:「実は嘘」という表現が気に入った。この正反対のものが同居する組み合わせ。

*2:ちょうど最近、清水亮さん、川上量生さん、東浩紀さんの3人の対談の動画を見た。その中で清水さんがエンチャントムーンを作った背景にある考えについて、東さんと清水さんが語る箇所がある。清水さんは手書きで図や絵を描いたりできるのに、タブレットではそれができなくて不便だ。そういう意味ではユーザーは表現したいことがあっても製品の仕様に従わなければならない。そういう束縛から解放するデバイスとして手書き入力のエンチャントムーンを作ったのだという。それは確かにそうだなと感じる。文字であればキーボードの方が早くて便利なのだが、図や絵となるとまだまだ手書きの方が圧倒的に書きやすく、そして早い。


「技術、思想、社会」清水亮×川上量生×東浩紀 20121205 2000開始 - YouTube