ロードバイクを買って思ったこと

    ロードバイクを購入した。以前はネットで30000円クラスのものに乗っていたが、パーツ交換などでやたらお金がかかることもあって、ある程度値段のするちゃんとしたロードバイクを実店舗で買おうと考えた。

    自分がここへきて突然のようにロードバイクの購入を決意したのは、電車内や駅の構内の混雑や遅延、車内でマナーを守らない人間にイライラさせられるのが嫌だとか、そういうことばかりが要因だと初めのうちは思っていた。
 
   しかしさっき別の考えが浮かんできた。それは「裁量の大きさ」についての自分の認識に関わることだった。京王線や山手線や京浜東北線のような鉄道会社は大きな組織だ。そしてそんな鉄道会社によるダイヤ改正などの運行ルールの変更や駅の構内の拡張工事、車両の増設などの意思決定を待っていたら、いつまで経っても解決しなくて、自分1人がさっさとお金を用意してロードバイクを購入してしまった方が早いと感じたからなのかもしれない、と。大企業に変わってもらうのを待っていても、ステークホルダーの数が多すぎて調整に時間がかかったり、そもそも対処すべき課題として本格的に議題に上るまでにさえかなりの時間がかかったりする。そんな中で自分の持つ裁量などゼロに等しい。ロードバイクで移動するとなれば、どの道を選ぶか、どれくらいのスピードで走るかなど、移動途中の意思決定の裁量はほぼ自分ひとりの手に委ねられる。
 
   鉄道会社や全国展開するコンビニのようなチェーン店、或いは政府など、中身を問わず巨大な組織が動くには、時間とコストがかかりすぎるし、接客も含めて利用者の一人一人の個別の望みにまで細分化して対応することは難しい。テーラーメイドの対応というのは、今でも多くの組織には無縁だ。あくまでもある程度の規模を持つカテゴリーに属する集団としての「お客様たち」へ向けた対応として考えなければ、まとまった規模の収益は期待できない。塾で例えるなら、個別指導よりも集団授業の塾の方が企業の実態に近いという言い方もできるかもしれない。行動原理を前提に考えると彼らの決定を待っていても事態は一向に変わることがないのは自然なことだ。自分1人が決断して動き始めた方が早い。 多数の人間の中での自分の裁量と、自分一人の状況での自分の裁量とでは、後者の方が大きいことがほとんどだ。「ほとんど」と書いて断言を避けたのは、多数の人間の中にいるときでも、自分がその中でどの位置にいるかによって裁量の大きさが変わってくるためだ。トップに近ければ近いほど裁量は大きくなるし、大企業のトップと自分の裁量の大きさを比べたら、動かせるものごとの大きさという意味で前者の方がはるかに大きな裁量を持っていると言えるだろう。しかし組織の中で多くの人間は末端に近いところにいるわけで、彼らからすれば自分一人で動くほうが大きな裁量を発揮できることが多いだろう。
 この「裁量の大きさ」という問題は、最近書いたテクノロジーと人間の意志との関係の問題ともつながってくる。
 「自分がこうしたい」という意思があって、それに最も適合する手段はどれかを選択するとき、その手段にはテクノロジーとそれを制御する主体は誰かということが関わってくる。 バイクを運転するのは自分ひとりだが、電車であれば運転手や改札口の駅員など、様々な人間が制御の主体になる。そして制御の主体が増えれば、それに応じて制御の対象になる事柄も増え、時間やコストは増える。経験的には、電車を選べば20km以上の移動は早いが、それ以内の距離ならばロードバイクでの移動と早さは変わらない。そして乗り換えの関係で費用が変動し、行きたい場所近くに駅があるとも限らないから、降りた駅からまた歩かなければならないことも少なくないから、時間のロスが大きい。その点ロードバイクはどこへ行こうと費用の変動などないし、駐輪場に停めるとしてもそれほど時間のロスはない。目的地までの行き方は何通りもあるし、始発も終電も気にしなくてよい。制御の主体が自分しかいないので、当然自分の意志との食い違いが小さいのは自転車の方だ。
 
 ロードバイクの購入は、移動手段の変化ということを通して、自分がどんな考え方なのかを振り返るいい機会になった。