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言葉の問題、検索の問題

26歳 コミュニケーション 内省 学問 日常 情報科学

 昨日、母とメールで「格差」についてのやりとりをした。私は最近読んでいるモイセス・ナイム『権力の終焉』の内容などを引き合いに出しながら、こんな風に書いた。

 

「世間ではトマ・ピケティの書いた『21世紀の資本』などを中心に、格差、格差と言っているが、例えば世界金融危機の後で、アメリカの99%の労働者の給料は11.6%減ったのに対して、上位1%の富裕層の給料は36.5%も減ったらしい。世間で『格差格差』と騒がれているのは、羽生選手や錦織選手のようなアスリート選手をめぐるブームと同じで、一過性のものに過ぎず、経済や政治の問題ですら他のブームと同列に扱われてしまっているのではないか。」

 

すると母はこんな風に返してきた。

 

金融危機だとかバブル崩壊だとかは庶民には大きく影響は出ず、例えばおかずを一品減らそうかといった些細なことでしかなくても、株だとか会社を経営している人たちにとっては存続の危機にまで発展するということでしょうか。」

 

 この返事をもらったとき、私は渋谷のスクランブル交差点脇のスタバにいた。MacBookを開いて記事を読んだり、カタカタとキーを叩いたり、読書をしたりする、「スタバで格好つけている『いかにも』な奴」という感じで過ごしていた。そして帰りの電車の中でこのやりとりを振り返っていたとき、初めのうちは「ああ、相変わらず自分は本の引用や難しい言葉ばかりを使っているなあ。気をつけてはいたつもりなのに、実際はちっとも自分の言葉で語ることができていない。母はちゃんと自分の経験に照らして、あくまで『自分の言葉』で平易に語っている。内容は同じでも、理解の仕方が大きく異なる。こういう『考え方のセンス』というのは、もしかしたら自分には一生身につかない類のものなのかもしれない…。」という風に、ネガティブに考えていた。

 

 「スタバで格好つけている『いかにも』な奴」がはまりそうな落とし穴に、わかりやすくはまっている、そんな感じである。つまり、何かやっているようで、ちゃんと見れば何もできたことになっていない、そんな状況に陥っていることに、自分ではなかなか気付けないでいる、というやつだ。やれやれである。まだまだ修行が足りませんなあ。

 

 しかし、自宅に戻っていつものようにブラウザからFeedlyで記事をチェックして、「お、これは」と思う記事を読んでいたら、別の考えが浮かんできた。きっかけになった記事はハーバードビジネスレビューのこの記事。

www.dhbr.net

 記事の中で、「スキル偏向的技術進歩」という言葉が出てきた。そこで「この言葉を使って文章を書いている人がネット上にはどれくらいいるんだろう」と思い、Googleで検索してみた。すると、PDFになっているようなワーキングペーパーやレポート、論文ばかりがヒットした。それでこの言葉はまだそれほど世間に浸透した言葉ではないらしいことがわかった。まあ素朴な感覚に照らして考えてみても、普段の会話の中で「スキル偏向型技術進歩」なんて言葉は使わない。Twitterではどうだろうと思い、そっちでも検索してみたら、この言葉が使われているツイートはわずか2つ。しかもそのうちの一つは、この記事の中でインタビューを受けている2人の著書『機械との競争』に関するものだ。ある種の言葉やそれを使った議論というのが時間が経ってもほとんど広まらず、そしてほとんど進まないということをひしひしと感じさせられる瞬間だった。

 

 専門用語を使っているからといって、必ずしもいい論理展開ができているとは限らない。しかしいろいろな文章を読んでいると、だいたい専門用語を使った文章の方が、そうでない文章に比べて説得的な議論ができている場合が多いように思う。あくまでも全体的な傾向では、という話で、個別に見れば例外はある。記事の冒頭で紹介した母などはその典型的な例だと言えるかもしれない。母は特に経済学を学んだりはしていないが、下手に経済学の用語を使って何かを説明した気になっている人間よりは、よほどちゃんと経済の現実を理解しているように、私には思える。「経済」(economy)の語源はギリシャ語の「オイコス」(家)「ノモス」(法、ルール、決まり)を組み合わせた「オイコノミア」にあるが、母は自身の生活に根ざした素朴な感覚をもとに経済を捉えていることを考えると、経済を本質から捉えることに成功していると言えるのかもしれない。その一方で私などは、小利口に「ギリシャ語では…」などと一説打っている。

 

 さて、だいぶ前置きが長くなってしまったが、ここからが記事の本題である。タイトルにした「言葉の問題、検索の問題」とは何かというと、冒頭のメールのやりとりやハーバードビジネスレビューに登場した「スキル偏向型技術進歩」の例のように、主張されている内容のエッセンスは同じなのに、それを語るときの「言葉」が違うことで、ネットでは互いに全く接点を持てないでいる文章が山のようにあるのではないだろうかと感じたのである。

 

 たとえば『権力の終焉』で紹介されているような、アメリカ国内の所得格差に関する議論は、「権力の終焉」という語句で検索すれば出てくるだろう。しかしその検索結果の中には、母のように自分の身の回りの生活に根ざして格差を捉える人間が書いた文章は出てこないか、仮に出てきたとしても、ほとんどの人間は目にしないような低い順位の位置にあるのではないか。

 

 このような、いわば「断絶状態にある似通った議論」同士をうまく橋渡しするのは、今はまだ視野の広い人間の役割なのだろう。そういう人間が書いた文章が多くの人に読まれれば、「言葉の違い」という表面的なところの問題は解消して、インターネットは多様な意見へのアクセスを促すかもしれない。しかし検索エンジン自体がこういう橋渡しを行う能力は、今のところはない。

 

 あることを調べるとき、検索ボックスにどんな単語を打ち込むのかは、簡単なようでけっこう難しい。いろいろなテクニックはあるけれども、もし自分が知らないことを調べたいとしたら、検索エンジンは今でもあまり役に立たなかったりする。というのも、自分が知らない言葉を検索ボックスに打ち込むことはできないからだ。検索エンジンは誕生当初からかなり進歩したとはいえ、今でも「調べたい語句があらかじめわかっていること」を前提として成り立っているサービスだ。これは「検索」という行為に関する根本的な問題ではないだろうか。つまり、私たちが調べたいと思うことは「自分がまだ知らないこと」なのに、その「知らないこと」について、検索エンジンは知らないことを表す言葉をあらかじめ知っておくように要求するのだ。なんという自家撞着。不思議なことが未だに続いている。

 

 今の検索エンジンは、誕生当初に比べればだいぶソフトになった。つまり厳密な表現だけでなく、だいたい合っていればちゃんと検索できるようになっている。多少のタイプミスがあったり、かな入力にし忘れて英数のままで日本語の言葉を入力してしまったりしても、「もしかして○○?」という表現とともに、本来入力したかった単語での検索結果を表示してくれる。しかし、それでも未だに、人間同士が異なる表現を使いながらも共通の話題について語るときの、あの柔軟さは獲得できていない。

検索者と検索エンジンとの間で、記事の冒頭で紹介したような、私と母とのやりとりのような「橋渡し」は起こる気がしない。

 

 そういう橋渡しがあれば、検索エンジンは人々の認識や考え方を広げることに資するだろう。検索語句について十分に柔軟でない今の検索エンジンのままでは、同じ言葉を使う記事ばかりがヒットして、議論が発展せず、ただの「著名な人間の引用合戦」が続くだけになってしまいそうだ。そしてそんな不毛な対立が、「検索エンジン」という外側の仕組みによって知らず識らずもたらされたものなのだとしたら、人間は道具を使うどころか、道具に誘導されている有様だ。

 

『権力の終焉』と「おかずを一品減らそう」の両方が検索結果に表示されるようになるには、まだまだ時間がかかりそうだ。