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世論の物理学は可能か

世論はどうやって決まるか

 代議制民主主義が政治的意思決定のプロセスの基礎を担うようになって久しいが、その一方で「世論」(public opinion)がいかに形成され、変動し、政治や文化、経済、社会というサブシステムを介して特定の決断を下すに至るかということについての研究は、まだまだ発展途上である。それは社会心理学やエージェントベースシミュレーションなどの領域でこれまでにそれなりの蓄積があるものの、まだまだ「決定版」と呼べるものは存在しない。

 

 ステマニューロマーケティングなど、世論がマスメディアを通じて操作できるものであるかのような言説があるが、その効果についての議論はサブリミナル効果」や「愚かな大衆」という概念に対する信頼によって成立している。しかしその言説は、これらの概念について厳密な測定方法がまだ存在しないために説得力に欠け、そもそも世論とは何であるのかについて答えるものでもない。これはいわば、車の仕組みはわかっていなくともとりあえず運転はできるというような状態である。そこには「『世論とは何か』というような問いは哲学者あるいは学者に任せておけばよいのであって、もっとプラグマティックに考えるべきだ」というような、誤れるプラグマティズムを感じさせる。不景気の国では特にこうした誤れるプラグマティズムが跋扈しやすく、基礎研究よりも応用研究に比重が移ることによって、いずれ応用研究も基礎研究から引き出せるものを失っていってジリ貧に陥るという残念な結果を招きがちである。

 

 世論の物理学は可能だろうか。つまり各個人の心理や価値観といった主観的な指標を排し、「投票率」や「イベントの来場者数」などの客観的な指標に基づいて、世論の動態を正確に予測することは可能だろうか。いま「客観的な指標」の例として投票率や来場者数などを挙げたが、「物理学」というからには物理現象として世論というものを把握するのであるから、指標もまた、物理的なそれを考える必要がある。

 

大脳生理学や神経科学と世論との接点

 例えば大脳生理学や神経科学の領域では、脳波や特定のホルモンの分泌量の変化という物理現象が、特定の感情や行動と関係が深いということがわかっている。行動経済学神経犯罪学など、「脳」のレベルから個人の行動を理解しようとする学問領域はすでにいくつも存在しているが、個人の脳内の生理現象と集団のレベルでの相互作用の関係についてはまだまだ研究はほとんど進んでいない。脳に関するほとんどの実験が、基本的には一人の人間を対象としたものにとどまっているということは、藤井直敬『つながる脳』(新潮文庫においても指摘されている。こうした個と集団の間の断絶が、世論の物理学成立の障壁となっている。個人レベルでは測定が可能であっても、こうした指標は大規模な集団の現象を理解するための指標には適さない。それはいわばレゴブロックのパーツひとつひとつを徹底的に研究するものにすぎず、それが組み合わさって生まれる無数の作品については説明できない。

 

 複数の因果の連関については、アリストテレスを想起させられる。形而上学『自然学』の中で、彼はあらゆる原因をさかのぼっていくとたどり着く、原因の原因の原因の・・・の果てにある究極の原因を「不動の動者」あるいは「神」と呼んだ。

 

 もちろん科学的には、究極的な要因としては生理レベルでの反応、或いは分子や原子、素粒子レベルでの反応や相互作用ということが基礎となって、その上で集団レベルの相互作用に関する研究が進み、その理解が完結することになるのだろう。しかしこうした生理レベルの要因が引き金となって生じる一連の反応の系列の中で、より測定に適した指標が存在しているのではないか。

 

なにをもって「世論を理解している」といえるか

 あるものについて「理解する」ということを示すメルクマールとして、「それを作れるか」というものがある。生命科学の分野において「生命とは何か」がまだ理解されていないとしばしば指摘される。それは私たち人間が、細胞をその構成要素のレベルから作り出すということに成功していないからである。クローンは成功しているが、あくまでも「細胞以降」であって、細胞以前の段階からクローンを作ったわけではない。もし世論について理解できているならば、それを意図的に作れるか試してみればいい。もし自分が意図する通りの世論を形成することに成功したならば、そのことをもって世論を理解したことの証とすることができるのではないか。

 

 もちろんこの証明のしかたは、世論の煽動やプロパガンダをさすものではない。だからヒトラースターリンを証拠として世論形成の可能性を云々するのは早計に過ぎるというものだ。もちろんそうかといって、こうした煽動やプロパガンダについての数々の歴史的事例が、「世論とは何か」を理解するのに寄与することはあるだろう。

 

 世論とは、それを生み出す構成員による合議を前提としない。その意味では世論とは集団的意思決定とは別のなにかであると考えるべきだ。また代議制民主主義は、議員による議論を通じて、国民の意思決定を代行するかもしれないが、世論とはそれとも別のところにある。だから国会の議論を見つめていても世論のことはそれほどわからない。国会における議論が世論の反映物であるならば話は別であるが、そうも見えない。あくまでも世論それ自体に目を向けることで、そのダイナミクスのパターンを抽出できないか。

 

エージェントベースシミュレーションによるアプローチと疑問点

 マルチエージェントシミュレーションによるアプローチをネットで見つけた。ありそうな着想であるし、私自身も考えた方法であった。しかしそれは考察の順序としては違和感を覚えてしまう。この方法が有効なのは、個々のエージェントが独立であるという前提を認めた場合での話であるが、それならば世論というのが独立した個々人の相互作用によって生じる現象であるかどうかをまずは議論すべきではないかと考えるためだ。つまりエージェントの属性を設定し、パラメーターを各エージェントにバラバラに割り振って相互作用させることで世論が形成されていくという風に考えるのではなくて、それがそもそも妥当なアプローチであるかどうかということも含めて論じたい。もちろんエージェントベースのアプローチでは、現実の状況に対する「当てはまりのよさ」を以ってそのモデルの妥当性を保証するということが往々にしてあるが、私はそれでもなお、その妥当性をモデルの外部から保証するという手続きを経たいと考えている。

 

 またこのアプローチについてのよりテクニカルな部分での疑問として、モデルを構成する変数が現実には測定不可能なものであるということがある。例えば世論形成のモデルにおいて、「エージェントの意見が変化する確率」という変数をもとに方程式が立てられる。それをもとにある程度説明力のある結果が得られることもあるのだが、これは実際の世論をシミュレーションするには向かない。ある個人の意見が変化する確率を計算する手立てがないからである。もしそれが確立されているならば、現実の世論の予測にも使えるので応用の可能性がぐっと高まるが、残念ながらそこのところの理論的な支柱がまだ用意されていない。あくまでも現実に測定可能な変数をもとにモデルを構築できないかということを考えたい。

 

世論を左右すると思われるいくつかの要因

 世論というものを考えるためには、個人と社会の関係や、単なる実定法でない、個々人に内面化された抽象的な意味でのの意義、メディアの機能、問題の認知に関する個人レベルのバイアス、集団レベルのバイアスなど、いろいろな要因が関わってくるように思われる。

1.個人と社会の関係

 まずは個人と社会の関係について、すでに述べたように「個人が社会とは独立に存在している」という捉え方は退け、社会の中に埋め込まれ、周囲との関係性のネットワークの中から生じてくる諸個人の相互作用ということを考えねばならないように思われる。それも学校のクラスや会社での会議など、参加者が互いに顔見知りであって「どこからどこまで」ということが明確な状態での相互作用でなく、見知らぬ他者の方が圧倒的に多いような集団、いや「群衆」(crowd)の中での諸個人の相互作用ということを念頭において考えねばならない。

 

 そこでは決定権の所在が明確でなく、したがって責任の所在も判然としない。ある世論について、それは誰の責任かと問うても答えは得られない。なんとなく発言力の強い有識者の名前や、特定のメディアを挙げたとしてもそれは間違いで、世論はもっと不特定多数の人間の相互作用の中に見出されるものである。そして特定の個人が責任を意識するには数が多すぎるのだ。法には責任の所在を決定する機能があると考えるならば、群衆の意思決定において法は適切に機能するだろうか。世論を相手にした場合、法は一体誰をどのように裁けるのか。

 

 もちろん常識的には、政治に責任を委ねるということで集団的意思決定は成立しているのであるから、責任の所在も政治の中に求められる。しかしそのことを認めたとしても、やはり依然として世論は政治の側にはない。それはどこまでいっても私たちの側、「こちら側」に留まり続けている。選挙において、自らの価値観に基づいて自覚的に代理人(議員)を選ぶということと、世論の構成員であることは全く別の事柄である。

 

2.メディア

 そしてメディアは、こうした互いに顔も名前も知らない群衆の中に、共通の話題を流し込み、「私たちは互いの顔も名前も知らないものたちがほとんどであるが、少なくとも群衆としてはひとつである」ということを個々人に自覚させる効果を持つ。意思決定を議員に委ねた諸個人は、まさかそれでもなお自らが「世論」という意思決定システムの主体であるとは露知らず、メディアの情報に触れることになる。こうした無自覚、無意識の状態において諸個人は、最も誘導・煽動されやすい、まさに「群衆」としてその姿を現すことになる。

 

 しかし研究活動と同様、メディアもまた景気と無縁ではありえない。あくまでも「経済」というフィールドのプレイヤーであることを免れない各メディアは、好況期においては自らの思想信条に基づき、世論とは一定の距離を置いて比較的自由に主張を行いやすいが、不況期においては世論に左右されやすくなる。もしも後者の状況であれば、人気のある話題や価値判断はますますメディア上を席巻し、そうでない話題や価値判断は見当たらなくなる。これは富める者はますます富むという「マタイ効果」、あるいは結果が原因を強化するようにはたらく「正のフィードバック」の一例であり、少数者は集団の同調圧力によってますます自己主張を控えるようになることで、さらに少数者の沈黙に拍車がかかる沈黙の螺旋理論」(E.ノエル=ノイマンの一例でもある。

 

 

 

 こうした効果については、以前に書いたネットをめぐるアーキテクチャの議論でも指摘しておいた点である。*1そしてメディアの活動を条件付ける「景気」という現象が、もしも世論によって条件づけられているとしたら、世論とマスメディアの両者は「景気」という現象を介した相互依存の関係にあるという状況が見えてくる。世論→景気→マスメディアの活動→世論→・・・という循環が生まれる。

 

3.認知バイアス(個人レベルと集団レベル)

 また問題の認知に関するバイアスも、世論の形成を条件づける。最たるものは二項対立であり、集団の問題は政治によって対処されるという通念によって、政党政治の鋳型の中に収まる形で問題は解釈されなければならなくなる。ところで政党政治とは、実際に複数の党が並存している状況においても、実質的には二つの派に別れることになるか、あるいは特定の二つの党の間の対立こそが重要であって、他の政党の主張はさして問題の焦点にはならないという状況に落ち着く。こうして問題を処理する前提として「A対B」(賛成か反対か)という形で二つの鋳型が用意され、一方にはA、他方には非A(B)という形で、あらゆる問題は二つの立場のいずれかに解決策があるというフレーミングが生じる。これは政党をめぐる状況以外でもありふれたもので、個人の認知バイアスと相性がよい。私たちは実に多くのものごとを二項対立によって認識しているのであり、私たちがそれを否定する多くの反例においてすら、厳密に検討してみるならばたちどころに、そこに潜む二項対立の存在に行き当たることになる。また仮にに高対立的でない形で議論を展開しようとする向きがあっても、多数決的原理によって複雑な図式は遅かれ早かれ淘汰され、結局はおなじみの二項対立図式だけが生き残ることになる。このようにして二項対立図式は、多数決の原理と人間の個人レベルのバイアスの2つから、いわば演繹的に導かれる。

 

 そしてまたこの二項対立図式は、集団のレベルにおいてもバイアスを生み出す。つまり「二つのうちのいずれか」という形で問題が理解されるときには、他者の立場が自分の立場と同じ側である場合に、他者の思想の内実までもが、私のそれと同一であるという錯覚を生み出しがちである。それはデリケートな感情を含みがちな問題であるほど顕著な傾向を示し、立場の一致が感情の一致を裏書きするという錯覚を生み出してしまう。思想の内実を明らかにしてみると、実は両者は180度違っているということもあるが、そうした事態は二項対立においては顕在化しにくく、あくまでも潜在し続ける。ここに結論の一致をもって内実の一致の証とするという誤認が生じる。内実のレベルでの一致を伴わない集団の意思は、微妙な均衡の上にどうにか成り立っているにすぎず、ひとたびその違いが明らかになると、均衡は簡単に崩れてしまう。それは世論のうつろいやすさを特徴付ける。

世論を知るのにどんな指標が適当か

 さて、こうした世論について、いかなる指標にもとづき、いかなるモデルを作ることが可能であるか。ネットが存在感を強める昨今においては、ネットにおける様々な数字をもとに世論を説明しようという力がはたらきやすいが、ネットが世論の忠実な反映物とみなすにはまだ早いと私は思う。したがって、少なくともネット「だけ」を頼りに世論を描き出すことは避けたい。

 

 ストレートに世論調査の結果を分析するのはどうか。行動主義(behaviorismの没落以降、「態度概念」の分析が流行した時期があった。すなわち「刺激ー反射」という簡単な図式は退けつつ、両者の間に「態度」という概念を導入し、これが結果としての「行動」を決定すると考える立場である。そこでは態度(原因)の方を調べれば行動(結果)の予測ができるだろうという発想が生まれる。世論調査の中身は、基本的には特定の社会問題についての個々人の態度の表明を求めるものである。特定の政党を支持するかどうか、特定の政策を支持するかどうか、そうした態度を調査し、統計的に処理を施すことで、選挙結果の予測を行おうと考えられたりもする。しかしそれもしっくりこない。それでは政府の統計は?著名人の発言は?やはりしっくりこない。私は何か、決定的に重要な、それでいてまだ知られていない、世論を測るための有効な指標を見落としているように思えてならない。

 

 それはたとえばビッグデータによって明らかになるようなものなのかもしれない。もしそうだとしたら、そのとき私は世論についての説明変数について、「なぜそれに注目することが有効なのか」という問いに答えられるだろうかということが気にかかる。ビッグデータ人工知能による分析の議論では、こうした事態が頻繁に生じうる。つまり私の理解を超えているが、とにかくこれが有効であるということはデータが示している、だから私は信用せざるを得ない、と。賢いコンピュータが、あるいは賢い人工知能が論理的な演算に基づいてそう判断しているのだから、私はそれに従いさえすればよい…。上で述べた「誤れるプラグマティズム的に考え、実効性だけを問題とするならばそれでもいいけれども、私はあくまで自分の頭で理解したい。その意味ではやはり「意味」の理解、「筋道」の理解ということを抜きに考えることはできない。

 

はたしてどんな変数に注目すればよいだろう。

 

【参考文献】

[1] 矢野和男『データの見えざる手:ウェアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則』(草思社)[2013]

[2] ビクター・マイヤー=ショーンベルガー、ケネス・クキエ『ビッグデータの正体 情報の産業革命が世界のすべてを変える』(講談社) [2013]

[3] 小坂井敏晶『社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉』(筑摩選書)[2013]

[4] ウィリアム・ジェイムズプラグマティズム』(岩波文庫)[1957]  

[5] 藤井直敬『つながる脳』(新潮文庫)[2014] 

[6] ー『拡張する脳』(新潮社)[2013]

[7] イーライ・パリサー『閉じこもるインターネットーーグーグル・パーソナライズ・民主主義』(早川書房)[2012]

[8] 東浩紀北田暁大『思想地図〈vol.3〉特集・アーキテクチャ』(日本放送出版協会

[9] スコット・ペイジ『多様な意見はなぜ正しいのか』(日経BP社)[2009] 

 

*1:表現の自由をめぐる空気と「何が消えたか気付かない問題」について - ありそうでないもの