「最高の娯楽は学ぶこと」に対する不安

 私にとって、最高の娯楽は学ぶことであり、普通の遊びを私はほとんど知らない。「遊びを知らない男はつまらない」という世間の価値観があまりに強すぎて、私は自分の足元がぐらついているように感じることがこれまでに何度もあった。今でもたぶん心のどこかで、このことをコンプレックスのように感じているところがあるのだろう。どうやったって、私は一人では生きていけない。私は社会の中で生きている。しかし、私の核をなす価値観は、世間のそれと異なる。いや、ある意味では正反対とすら言えるかもしれない。遊びを知っている人間の多くにとって、学ぶことは苦痛のようですらある。研究者になりたいと願う私は、そういう価値観の人々が集団をなして暮らしている社会の中で、居場所を見つけにくく、自分が周縁的、アブノーマル、例外的、異端的な存在であるように感じられる。

 

 高校生のころ、私は部活に入っていなかった。自転車で通学していて、登校も下校も一人で、自分のペースだった。通学コースの途中に、お気に入りの書店やパン屋がいくつかあって、たまにそこに立ち寄って、時間を過ごすのが、帰宅途中の密かな楽しみだった。部活をしている人たちに比べて帰りが早い分、店に立ち寄ったり、自宅に帰る前に祖母の家に立ち寄っておしゃべりをしたりする時間が私にはあった。もちろんそんな余分の時間の多くは、勉強に費やされた。おかげで成績は上がり続け、初めは負けていた同級生もいつしか追い越したりすることもあった。それも余分な時間の賜物であり、特に帰宅途中の時間は私にとって、普通の高校生らしくはないかもしれないが、高校時代の自分のある種の気分を生み出していたし、ある種の感受性に響くものだった。それらの経験は、たとえ言葉ではうまく表現できなくとも、私にとって何かしらの意義がきっとあった。一方で学校にいるときは、休み時間や昼休みなどを中心に友達と話していたものの、「何かを共有している」という感覚に乏しかった。私は元来、好奇心が強かったためか、色々な人としゃべるのが好きだったので、誰と話していても自分から壁を作ることはなかった。けれども他の人たちが使うような意味での「友達」は、果たして何人いただろうかと、大学に進学して以降、何度か振り返ることがあった。私は高校時代、友達とついに一度も遊ぶことがなかった。そんな高校生が全国にいったい何人いるだろう。しかしそのことについて、本当は全く後悔していない。なぜかと言われれば、帰宅途中の、ほとんどが自分一人だけの思い出も大事だが、本質的なのは、私は読みたい本を読み、好きなように勉強し、好きなようにものを考えていたからだ。もしかするとそれは、そう思い込むことによって、自分の足元を確かなものにしたいだけなのかもしれない。「大丈夫、ぐらついてなどいない」と。

 

 ただ、後悔はないと思う一方で、世間とのバランスを意識することも少なくなく、友達と一度も遊ばずに3年間を過ごしたことを誰かに言うことに抵抗を感じることもある。それを言うことによって、ある種の信用を失い、ある種のレッテルを貼られることに敏感になっている。

 

この人とは一緒にいてもつまらない。

 

この人とは遊べない。

 

この人はなんだか信用できない。

 

そういうものを、相手の眼差しの中に、オブラートに包んだ言葉の中に、少しの間生まれる沈黙の中に、感じるときがある。

 

 彼ら・彼女らは、学ぶことが最高の娯楽であるという私の言葉を聞いて私を褒め称える。そして同時に距離を置く。自分とは違う世界の人間として。それは初めから起きるとは限らないが、せいぜい時間の問題でしかない。時間が経つにつれ、遊びを知らない私の元から、人々は離れていく。遊びがないから楽しめないのだ。無理もない。私は彼ら・彼女らに褒められるたび、辛くなる。ああ、また距離を置かれることになるのだなと。この人もいずれ、つまらなくなって私の元から離れていくのだろうなと。

 

 バランスを取ろうとする私は、誰かと食べたり飲んだりするとき、オシャレな店や凝った店を選んだりする。せめて着るものに気を使うことで、「つまらないやつ」から遠ざかろうとする。ファッションは小さい頃から好きだから特に苦でもないし、楽しんでもいるけれど、「つまらないやつと思われないようにする」という効果を狙っていることは否定できない。しかしそんな表面的なところを取り繕っていてもしょうがない。映画やカフェ巡りやサイクリング、軟式テニスなど、私には遊びとして使えそうなものが全くないわけでもない。それでも私は、平均よりはるかに遊び知らずな人間だろう。

 

 私は孤独であるとは感じない。冷たい人間だとも思わない。ただ、私はそういう人間だと思われることを、私は止めることができない。私にとっての私と、他者にとっての私はこのようにして、平行線をたどり、重なることはない。

 

 「最高の娯楽は学ぶことである」と主張することへの不安は、今でも消えない。それはコンプレックスとなって私の中に残り続けている。「コンプレックス」と言いながら、そのことを全く気にせず、「私は私だ。学ぶことを最高の娯楽と考える一個の人格だ。」と平然と主張できるときもある。あるいは、そう思う部分も私の中にはある。

 

 以前に『遊べない社員はいらない』というようなタイトルの本を書店で見つけた。どこかの企業の社長の方が書いた本だったと思う。私のコンプレックスは、その本を偶然見つけた瞬間に最高潮に達し、私の核が否定されたように感じた。生まれて初めて、人格を否定されたように感じた瞬間だった。それ以降も、書店でその本を目にしてしまうことが何度もあった。無意識のうちに、その本が置かれている方に視線が向いてしまうように感じた。私はその本に何を感じているのだろうと、目にしてしまうその度ごとに思った。別にその本の著者にどうこう言いたいわけではない。世間ではおそらく、遊べない人間はつまらないと思われることもわかっているし、私自身が実際にそう思われていると感じる経験これまでに何度もしてきた。

 

 この不安は死に至るほどのものということはない。私は自殺したいと思うことはない。かつてはそんな時期もあったが、今はそんなことはない。しかしこの不安は、私に生涯つきまとうのではないかと思うことはある。この価値観を共有できる人間が私のそばにいなければ、私の精神はいつか重圧に押しつぶされてしまうかもしれない。

 

 それでも私にとっては、やはり学ぶことが最高の娯楽であり、これからもそれは変わらない。人間の人間たるゆえんが知性であるとするなら、私のあり方は人間的であるはずだ。しかしそんな考えはただの独りよがりだとでもいうように、世間では全く違う人間観が広がっている。

 

 私は、ポジティブもネガティブも含めて、どんな感情も上から俯瞰して楽しむという姿勢を心がけている。ああ私は悩んでいる、さぁ私はこれにどう対処するのだ?見せてみろ、と。私についての実況中継と言ってもいい。そういう姿勢は年をとるにつれて、少しずつ、しかし着実に私に馴染んできて、私の足元を支える基礎になっている。私がこの不安、このコンプレックスと向き合い続ける中で見つけた一つの対処法でもある。

 

    私は好奇心が旺盛であるがゆえに、色んな分野に興味を持って学ぼうとする。そしてそれぞれの分野について学べば、それぞれの分野を専門とする人々と話ができるようになってくる。それは私の世界観を拡げ、私の心を豊かにもしてくれる。学ぶことによって、私はこうした恩恵を得ることができる。それはなんと喜ばしいことだろう。

 

   しかし、色々な人とそれぞれの分野について話ができても、一人の人と色々な分野について話ができることはほとんどない。私はそんな人を求めているが、それは要求が高すぎるのだろう。或いは贅沢すぎるということなのかもしれない。しかし、色々な分野についての知識が私の総体を形作っていて、私は私の総体を余すことなく、さらけ出すことのできる人を求めている。ただのわがままかもしれないが、私の心の支えとして。そんな人はいるはずがないのかもしれない。