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モザイクでないが、それがモザイクに見えるとしたら

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言葉について書いてみようと思う。

 

「悪人」とか「善人」という言葉が昔からあまり好きではなく、日常会話でもこれらの言葉を使うことは避けるようにしている。

最近ドラマやアニメなどでこれらの言葉を目にする機会が増えたような思う。パッと思いつくものだと『ペテロの葬列』『罪人の嘘』『HERO②』『PSYCHO-PASS』『残響のテロル』など。


月曜ミステリーシアター 『ペテロの葬列』 | TBSテレビ

 

『ペテロの葬列』では「悪は伝染する」というセリフが繰り返し出てくる。言葉の意味にこだわって考えるならば、「伝染する」という言葉は「それまではそうでなかったものが、何かによってそう変化してしまう」 というニュアンスを含むので、「悪が伝染する」という場合には、それまでは「悪人」でなかった人が「悪人」に変わってしまう、というニュアンスをもつことになるだろう。

 

自分なりの人間観、などという大仰なことが言えた年齢ではないかもしれないが、人間には善人も悪人もいやしないと思っている。裏返して言えば、状況によって人は善人とも悪人とも呼ばれうる、善人と悪人のどちらか一方でないからこそ、かえってその両方でありうる、と。

 

「自分なりの」というのは、「自分の経験と照らし合わせて導き出した」というほどの意味だ。オリジナリティーを主張するつもりはない。こういう見方自体はありふれたものの一つに過ぎない。

 

 信号無視をする人は「悪人」だろうか。あるいは無視しない人は「善人」だろうか。詐欺師が信号無視をしなければその人は「悪人」だろうか。それとも「善人」だろうか。こういう議論もありふれたものだが、ここで考えたいのは、「私たちの普段の言葉の使い方とこういう問題がどう関わるか」ということである。

 

「悪人」や「善人」という言葉が使われるとき、なぜかある人の特徴の一部が全体に適用されてしまうということがよくある。また言葉はものごとを「分ける」ものだから、当然それまでは渾然一体となっていたもの、連続的だったものが互いに切り離され、それらは大体両端に配置されたりする。「二律背反」のできあがりだ。

 

鈴木健さんの『なめらかな社会とその敵』という本がある。

 

なめらかな社会とその敵

なめらかな社会とその敵

 

 書評もいくつかある。

佐々木俊尚さんのもの→


超刺激的だが難解な本『なめらかな社会とその敵』が必読である理由|佐々木俊尚 blog

 

内田樹さんのもの→

『なめらかな社会とその敵』を読む (内田樹の研究室)

 

山形浩生さんのもの→


鈴木『なめらかな社会とその敵』ヒース『ルールに従う』:社会の背後にある細かい仕組みへの無配慮/配慮について、あるいはツイッターでなめ敵とかいって喜んでる連中はしょせんファシズム翼賛予備軍でしかないこと - 山形浩生 の「経済のトリセツ」

 

池田信夫さんのもの→


池田信夫 blog : なめらかな社会とその敵

 

言葉の作用によってもともとはなめらかだったものが段階的なもの、離散的なものに変わってしまうが、それをなめらかにしたらどうか、ということに関していくつかのアイデアが書いてある。

 

言葉を使えば政治的立場は簡単に二つに分かれる。右と左。自民党民主党民主党と共和党。「AとB」の二つに分かれた後はそれらしいものがどんどん当てはめられていく。

では一旦こうした「言葉」から離れ、現実を連続的なものとしてそれに対処するという方法でいくとどうなるか、と言えば気になる。

 

ただその一方で、私たちは日常的には言葉を使い、なめらかな現実をガタガタな不連続なものに分け、分けた後でそれに対処している。私たちにとって、言葉を通して世界を見れば、1か0かでないにしても、あくまで「それがモザイクに見える」ということに変わりはありません。

 

二律背反でもその中間でもなく、モザイクであるとしたら、モザイクなものにモザイクなりに対処する仕方がないものか。

電車の中で携帯を使い、周りの迷惑になるような大きさでしゃべっている人が、電話を切るときに「じゃあ気をつけてな。」と通話の相手への気遣いの一言を口にしていたりする状況によく遭遇するのだが、それでは彼ら・彼女らは悪人だろうか。いや、善悪混じった「モザイク人間」だろう。「モザイク」の一つ一つの部分は、実際には連続的なものかもしれないし、本当に不連続なものかもしれないが、少なくとも「言葉」 を通して見るならば隣り合うもの同士の間には何らかの境界線があって、混在している。

言葉を使うときに、抽象化すれば便利なものだから、私たちはついつい一部の特徴だけを見て一般化し、他の特徴を見なくなりがちだ。何度か悪いことをすれば「はい、悪人。」と捉えてしまう。

 

これはいわゆる「第一印象」というのでも同じではないかと思う。だから僕は「第一印象」という言葉もあまり好まない。

「あの人最初は○○かと思ってたけど、意外と△△だよね」などという言葉をよく耳にするが、第一印象がその人の本質である可能性はむしろ低いのではないか。第二印象、第三印象・・・と見続けるにつれて簡単に覆されていくと本当は経験的に知っているはずなのに、それでも第一印象を重視してしまう。

「初めが肝心」「つかみが重要」なんていう便利な言い回しも社会で流通している。それらが「実際にはそうではない」ことを知っていても、使い勝手のよい言葉は簡単には消えないもので、「わかっちゃいるけどやめられない」式に使われ続け、その言葉を使うことで認識される現実の方が生き残っていく。

 

複数のものの中で互いに争い、そして生存するということが「進化(evolution)」の定義であるとするならば、使いやすい言葉の進化は凄まじい。使いにくいが実態に近い言葉がそれらを乗り越えて進化するということはなかなか起きない。それでも使いにくい言葉、使われることのあまりない言葉を紡ぎ続けるという営みが広く見られるのはどう解釈すればいいのだろう。

 

モザイクはモザイクとして進化するだろうか。連続の可能性も不連続の可能性も持ったまま、それでもそう見えてしまう「モザイク」は、 どう進化しうるのか。

 

そんなことを考えながら品川駅で乗り換えだ。