笑うことと面白いこと

 

 笑うかどうかと面白いかどうかは別のことだと私は考えている。理由はいたって単純で、笑っているが別に面白いとは感じていないとか、逆に笑ってはいないが面白いと感じていることがあるからだ。英語でいえばfunny(笑える)とinteresting(面白い)の違いといえる。これについて考えたことを、例を4つほど挙げて書いてみようと思う。

笑いはするが面白いとは感じないこと:アキラ100%PPAP

 去年流行ったものの中から例を挙げると、たとえば股間をお盆で隠しながら色々なことをして、観客をヒヤヒヤさせるという芸をする、アキラ100% *1という芸人がいる。和牛 *2という別のお笑いコンビのコントを色々見ていた私はたまたま関連動画の中で和牛とアキラ100%のコントを両方含むような動画を見てその存在を知った。アキラ100%のコントを見ていたとき、私は顔が笑っていた。それは何というか、ある種の条件反射のようなものなのではないかと思う。ある条件に置かれると私の口元は緩み、気付くと笑ってしまっているということなのではないか。そういう意味では、その時の私は単なるパブロフの犬と同じような存在だと言っていい。

 しかし、笑いはしたのだけれども、私はアキラ100%のいったい何が面白いのかということはわからなかったし、今もわからない。ネットでアキラ100%について論評している記事を目にして、実はこういう解釈ができるというのを読んだときも、一理はあるかもしれないがと私はそれが理由で面白いとは感じなかった。

 もう一つ、PPAPも世間でヒットする少し前にTwitterで目にして、そのときは笑ってしまい、職場の同僚に紹介しさえしたのだけれども、何が面白いのかと言われると、特に面白いとは感じない。

 その場その場で笑わせることはけっこう誰にでもできるのかもしれないが、生き残り続けることができるかどうかは、面白いかどうかということが鍵になるのかもしれない。パッと現れては一大ブームを生み出し、ものすごい勢いでYouTubeの再生回数が伸び続け、それで広告収入がすごいことに…というようなことはあるかもしれないし、そういうタイプの現象はSNSの登場以降は特に起こりやすい条件になっているとは思うが、そういうものに持続性はない。SNSで流行ったものは、それがSNSという空間であるがために、短期間で忘れ去られたり飽きられたりして終わる。そして人間というのは似たり寄ったりにできているので、一定の条件さえ満たせばけっこうそれなりの数の人の笑いを取れてしまうものなのではないかと思いもする。では私が笑いを取れるかと言われれば、私にはとれないのではないかと思う。

笑いはしないが、面白いとは感じること:『自民党』と『経済成長の果実』

 上に挙げた二つの例は、「笑うが面白いわけではないこと」の例である。では「笑うわけではないが、面白いこと」はどうかというと、私の場合は本や動画がほとんどだと思う。本にしろ動画にしろ、あるいはそれ以外の何らかの作品にしろ、私がそれまで知らなかったことを元にして作られているものには新規性を理由に面白さを感じるし、私がすでに知っていることだけを元に作られているものであっても、私には思いも寄らなかったような発想や構成で作られているものにも、やはり新規性を理由に面白さを感じる。好奇心が強いから自然とそういう好みになるのだろう。

 例えば私は最近、中公新書から出ている中北浩爾の『自民党』と中公文庫から出ている「日本の近代」というシリーズの第7作にあたる猪木武徳の『経済成長の果実』を読んでいる*3。私は高校時代に政治に詳しい友達がいたこともあって、政治に詳しくないことについて少しコンプレックスのように感じていた。それは大学以降もずっとそうで、その割にちゃんと腰を据えて政治のことを学ぶことはないままだったので、今更ながらこういう本を読み始めたわけだが、当然のように自分が知らない言葉、それも固有名詞が本文にどんどん出てくるので、読んでいてとても面白く感じる。

 たとえば『自民党』なら、党の中でどういうことが起こってきたのか、党の中の派閥はどういう機能を果たしているのか、そのときそのときの経済の状況が変化すると自民党はそれにどう対応しながら変化してきたのか。民主党が政権をとったときには自民党はどうしたのかなどなど、がうまくまとまっている。まだ読み始めたばかりだけれども。ちなみにこの本を読み終えたら、自民党関連で中公文庫から出ている北岡伸一の『自民党』を読みたいと思っている。政党というのはどういう機能があり、それとは別に実際にはどういうものとして機能してきたのかということには、自分が出馬するかどうかとか、自民党に票を入れるかどうかとか、あるいはこれを知ったことで自分の年収が具体的にいくら増えるか(何の役に立つか)ということとは別にして、それなりに関心がある。

 あるいは『経済成長の果実』であれば、高度成長の時期に日本の社会はどういう変化をしたのか、それは今の日本とどうつながっているのか、当時生まれた制度や法律、企業の慣行は今も妥当なのかどうかなど、色々なことを考えるのに、とても参考になる*4。ちなみにこの本を読み終えたら、中公文庫から出ている吉川洋の『高度成長』を読みたいと考えている*5

 どちらの本も、テレビでは尺(時間)と視聴者層についての番組制作会社側の想定と広告代理店との関係などの複合的な事情で、ここまでまとまった内容を知ることはまずできないだろう。ちなみに私の家にはテレビはない。テレビゲームをするタイプでもないし、面白そうなドラマはTverやHuluで見ているので、わざわざ決まった時間に番組を見たいとも思わないし、いちいち録画するのも面倒なので、私は上京してきてからずっとテレビのない生活を続けている。それで困ったと感じたことはない。

 少し話の筋が逸れてしまったが、では私はこういう本を読んでいるときに顔が笑っているかというとそんなことはなくて、驚くほど無表情でありながら心の中ではとても面白がっている。いや、むしろそういうものの方が、顔が笑っていて面白いとも感じるものよりも、面白さの水準は上なのではないかとさえ感じる。

笑うことの良し悪し

 ここまでの書き方では、筆者は単に笑っているだけであることを批判したり、アキラ100%やPPAPを批判したいのかというと、私はそういうことを言いたいわけではないし、実際にそう思っているわけでもない。

 笑うことというのは、時と場合によって良くも悪くもなる。だから面白くないのに笑うことは常に悪いというわけでもないし、反対に人を笑わせることは常に良いことだとも思わない。時々後者のような考え方を根拠にして自らの芸人哲学を語る芸人を目にするが、私はその種の芸人哲学には用心している。その場にいる人間が笑っていても悪いことというのはあるし、そういう笑いの取り方を例えば政治家が行えば、失言(あるいは不適切な発言)を理由に失脚に追い込まれることすらある。

要するに何が言いたいのか

 いくつか例を挙げたりしながら書いてきたけれども、結局何が言いたいのかというと、笑うということと面白さというのは別次元のもので、一般には両者に正の相関*6があるように思われているが、それすらも誤りなのではないかということが一つ、もう一つは、私の場合は好奇心が強いので新規性を感じる「面白いこと」の方が「笑えること」よりも価値が高いと感じているということ、この二つである。

 

 

自民党―「一強」の実像 (中公新書)

自民党―「一強」の実像 (中公新書)

 
自民党―政権党の38年 (中公文庫)

自民党―政権党の38年 (中公文庫)

 
高度成長 (中公文庫)

高度成長 (中公文庫)

 

 

 

*1:ここに昨年のR−1の決勝戦でのコントを貼っておく。

www.youtube.com

*2:アキラ100%と同様にここにコントの動画を貼っておく。

www.youtube.com

*3:この二冊だけでは「そういう高尚な本の方がアキラ100%やPPAPより上」という誤解を受けそうなので、もう少し別の例を挙げると、「ボケて」の中には単に瞬間的に笑えるだけではなくて、面白いとも感じるネタがけっこうある。

ボケて(bokete) - 写真で一言ボケるウェブサービス

*4:私が猪木武徳を知ったのは大学のゼミで指定されたテキストのひとつが中公新書の『戦後世界経済史』だったことがきっかけだった。その後ゼミが終わり、しかし私は留年したために大学の5年目に突入した頃に『経済学に何ができるか』を読んだ。そしてその後、同氏は私の母校の教授に就任した。その当時の学長は私のゼミの担当だった教授で、ゼミで同氏の著書がテキストに指定されたのは教授の評価が高いということが理由で、ああついに教授として呼んだのかと思った覚えがある。

*5:吉川洋といえばマクロ経済学のテキストなどでご存知の方もいるかもしれない。最近では中公新書で『人口と日本経済』が出ていて、それも自宅にあるので、『高度成長』や『経済成長の果実』とも結びつけながら読みたい。

*6:比例といっても良い。つまり片方が増えればもう片方も増え、片方が減ればもう片方も減るというような関係を指す。ここではたくさん笑えるものほど面白く、笑えないものほど面白くないということになる。