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天邪鬼と知性

 先日、アルバイト先で私が読んでいた本について、同僚とこんなやりとりをした。発言は正確ではないが、概ね以下のように進んだ。

 

同僚X:「○○さん、『ネット・バカ』読んでるんですか?」

私:「そう。この本が流行ったのは数年前なんだけど、そのときには何となく気にはなっていながら読んでなかった。以前からそうなんだけど、なんか世間で流行っているときには読んでなくて、流行る前か、流行って少し時間を置いてからしか読まないということが多いんだよね。」

同僚X:「あぁ〜、それなんかわかるような気がします。」

 

同僚Xが言おうとしていたのは、「逆張りの精神」とか「天邪鬼」とか言われる類のことではないかと思う。「世間がXだと思っているときに自分はYだと思えるかどうか」というやつだ。そういえば『ドラゴン桜』でも、桜木のセリフにそういうのがあった。

 私は天邪鬼にはなりたくないと思っている。世間では常識とされていることの反対に実は「正解」がある、というような言い回しは天邪鬼であることを正当化するような代物であるが、厳密にいえば天邪鬼は、なにが正解であるかを判別する「知性」と直接結びつくものではないからだ。

 なるほど確かに、世間が一般に不正解を選びがちであるならば、天邪鬼の人間は正解を導き出す賢者のごとく扱われることもあるだろう。何が正解かが自明ではない混迷の時代にあっては、大した考えもなしにただ天邪鬼的であるだけで、結果的には正解を選んだことになるということも頻繁に起こるだろう。「混迷の時代」という表現もまた、思考停止を招くようであまり使いたくはない表現だ。

 数字を使って具体的に考えてみよう。例えば世間は様々な問題に対して、80%の確率で不正解を出すものとしよう。すると天邪鬼の人間は80%の確率で正解を出すことができる。80%の確率で正解を出せる人間は、80%の確率で不正解を出す側の人々から見れば「賢者」とみなされてもおかしくはない。ではこのとき、天邪鬼の人間に知性があるといえるだろうか。

 私は天邪鬼であるよりも、自律した精神の持ち主でありたいと願う。「自律」(autonomy)というのは、他者がどう考えていようとも、それとは独立に自分の頭で何が正解であるかを考えられる性質を指す。仮にも大学を卒業した身としては、自律した思考を育むための訓練を積み、なおかつそれを錆びつかせないように磨き続けるような人間でありたいと思う。自転車のチェーンは、雨に濡れないように普段から気をつけていても、たった一回雨避けのカバーをかけそびれただけで、錆びてしまう。私の頭もそんなようなものだ。

 世間の大半の人間たちがAと言おうと、ただそれだけで条件反射のようにBを選ぶ天邪鬼ではなく、自分の頭で考え、それが正解と思うならAだということもBだということもある。それは世間の大半の人間がどちらを正解だと考えているかとは関係ない。そういう風に頭を使いたい。

 正解がみえにくい時代状況においては、ただ天邪鬼的であることが知性と結びつけられがちであるようだけれども、論理的には両者は本来、なんの結びつきももたない。それでも世間を見ているとネットやメディアでは批判のための批判や奇を衒うこと、目立つことばかりを考えて逆張りをしているだけであることがミエミエの、反抗期をこじらせただけのような人々がけっこういる。

   何気ない生活の中でも、自分のものの考え方のスタンスを問われる局面の連続であるということを改めて感じ、その緊張感を忘れないようにしなければとも思った同僚とのやりとりだった。

 

 

 

ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること

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ドラゴン桜(1) (モーニング KC)

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