住宅街と図書館と、それから地球儀:モデルの意味

 ロードバイクで住宅街の中を走っていると、自分のいる道と交差する道が次から次へと現れる。それぞれの道は自分のいる場所からずっと奥に向かって伸びており、その両側にはたくさんの家が立ち並んでいる。

 小さい頃、図書館で本を読み漁っていたとき、あるいは単に図書館の中を歩き回っていたとき、私はここにある本のすべてを読み切ることなどできないのだということをあるとき自然に悟った。これはよくある経験である。そしてそこにある本は、世界に存在している本の中のごく一部に過ぎないということは、それからしばらくしてようやく理解した。

 こんなこともある。私は保育園にいた頃、死ぬまでに世界中の国々をすべてくまなく回ってみせると思っていた。世界にいくつの国が存在しているかなど知りもせず、どこにどんな国があるかもわからなかったけれど、ただ漠然と、地球儀のイメージだけをもとに、自分の一生は長く、まだまだ始まったばかりだ。これから死ぬまでの間に、根気よくやればきっと全ての国を回りきることができると素朴に思っていた。

 上にあげた3つの例のどれでも、今の私はその全てを網羅することはできないと感じるようになった。網羅とはなんだろう。世界は大きいが、自分が関わることのできる範囲はそのごく一部に過ぎない。自分の知っている、或いは知っていると思い込んでいるごく一部の範囲から、住宅街のすべて、図書館にある本のすべて、或いは地球全体の姿というものを、うまくつかむことはできるのだろうか。

 さいころを振れば、私はやがて起こりうる全ての場合を網羅することができる。起こりうる場合は全部で6通りで、しかもそれらは起こる確率が互いに等しいのだから簡単だ。地震はどうだろう。起こりうる地震というのをマグニチュード0(地震なし)からマグニチュード8くらいまでで考える。サイコロの場合よりは起こりうる状態の数が2つ増えた。これだけならまだいいが、地震の場合はそれぞれのマグニチュードの起こる確率が互いに等しくない。マグニチュードの大きい地震は滅多に起こらず、日本人の中でも、生きている間にマグチチュード0から3くらいまでしか経験したことのない人というのも過去にはいただろう。

 もしも全ての状態を網羅していないとしたら、自分の経験の中には存在しない出来事があるとしたら、人間は、そういう未経験のことがらについても、既知のことがらから正しく連想を行って理解することができるのだろうか。そういうことは震災の後で私たちが問われた問題だった。つまり、実際には東北の震災を直接経験はしていない多くの人々が、それでも震災を経験した人々に対してうまく想像力をはたらかせることができるかどうか、そして被災者とうまく助け合うことができるかどうか、という形で。

 ロードバイクで自分の走る道は、ありうる全ての道の中の1通りにすぎない。気分を変えようと考えて、違うコースを開拓したとしても、まだまだ十分でない。残されたコースは依然として残る。それでも私は、走っている道と、その周りに広がる街とをうまくつなげて捉えることができるだろうか。

 常に全体の中の一部にしかアクセスできない自分が、それでも全体について想像し、全体についてより正確な像を得ようとし続ける。Googleを使っても、全体像を捉えることなどできはしない。いや、場合によってはむしろ遠ざかると言ってもいいだろう。全体像を捉えるための深い思考を、それは妨げることがあるからだ。

 全体そのものを構成することはできない。だから私たちは全体の模造品を頭の中に形作る。その模造品は「モデル」と呼ばれる。モデルは確かに不完全だ。それはモデルとして不完全という意味ではない。それはかつてボルヘスが「学問の厳密さについて」*1の中で描いた、世界と同じ大きさの地図ではないという意味で完全ではない。しかしそんな意味で完全ではないということに何の意味があるというのか。世界はサイコロよりもはるかに複雑で、到底網羅などできはしない。どれほど記録をとり、どれほどのデータを高速に大量に処理したとしても、世界と全く同じものを構成することはできない。

 部分と全体が、うまく一対一に対応しない。リンクの失われた箇所があって、しかもそれは少なくない。それでも全体についてのイメージを描こうとする。今日もいつもと同じ道を使って家に向かう。

 

*1:

 

創造者 (岩波文庫)

創造者 (岩波文庫)