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body論

 今日はホワイトデーだ。バイトへ行く前に渋谷のヒカリエに寄るのを忘れないようにしなければ…。

 さて、世の中には「どうにもならないこと」というのが確実にある。どうにもならないことを無視して、自分に都合のいいように物事を運ぼうとしても、それはうまくいかないものだ。けれどもそういうことは、なかなか理解されないままになっていることも少なくない。

 例えば、自分の言い分は聞いてもらいながら、相手の言い分には耳を貸さないという人がいる。世の中は基本的にはgive and takeで回っているのだから、これでは自分の言い分が聞いてもらえないのは当然だろう。give and takeというのはネガティブな評価をされることも多いけれども、私はそれほどネガティブには捉えていない。等価交換は公正さ(fairness)を示すものだし、giveに対してtakeが伴うからこそ、人間の社会は存続することができたのだ。もしも一方から他方へ与えるばかりであったなら、社会はとうに破綻していたのではないだろうか。人間の世界には見返りを求めない「愛」という価値も存在するのだということを強調する芸術作品は後を絶たないけれども、例えば親から子へのgiveは、子から老後の親へのgiveだとか、子供の存在自体というgiveだとか、或いは子が贏ち得た成果という形で親へgiveされているという場合が多い。純粋なgiveを示すものとして「贈与」があるが、これも贈与する側は何も受け取っていないかというと微妙なもので、贈与することによって大きな満足感や喜びを得ているということもある。ただ金銭や物品という形では何も受け取っていないだけのことだ。

 どうにもならないことがあるのだということをちゃんと理解するために、色々な本を読むとか、色々な人と話をするとか、そういう方法もあるけれども、ここにもう一つ加えたい方法がある。それは「自分の体(body)について考える」ということだ。

 どんな人の体も、それが人間である以上、ある程度は共通する特徴を備えている。善人の体も悪人の体も同じだ。定期的に髪や爪は切らなければならないし、汗をかいたままにすれば風邪をひきやすいし、歯を磨かなければ虫歯になったり歯周病になったりする。どんな犯罪者であろうと、或いは総理大臣や大富豪であろうと、生理学で言われていることからは逃れようがない。どんな人の体であれ、体は常に正直なものだ。なぜなら体自体は私たちの意識ほどには嘘をつけないからだ。もちろん体が「勘違い」をして暴走するということもないわけではない。そういう暴走の結果として引き起こされる疾患も色々ある。けれども、暴走にしたって、暴走のパターンというものが確かにあって、そのパターンからはやはり逃れられない。そういうものだ。

 体に目を向け、体の声に耳をすませていれば、無理はできないということ、法則から外れたことはできないということが、それこそ身に沁みてわかるだろう。本を読んだり、人から話を聞いただけでは、人は変われない場合もある。「頭ではわかっているけれども、納得がいかない」とか「どうも腑に落ちない」といって。そういう人でも、体の反応には反論のしようがない。癌になるリスクを高める行動を取り続けてきた人が癌になったなら、それはある程度はその人自身の責任だ。医者がその人に「あなたの責任です」とまで言うかはわからないけれども、もし言われたならば、その人は反論のしようもないだろう。色々な本や人の話には反論してきた人であっても、体の正直な反応、素直な反応に対しては、正直に、素直になるしかない。そういうものだ。たとえその人と同じような生活スタイルをとっていながら、癌にかからなかった人が大勢いるとしても、やっぱりそれはそういうものなのだ。受け入れるしかない。

 体の反応というのは、ごく個人的なものだ。けれどもそれにちゃんと向き合い、どうにもならないことの、その「どうにもならなさ」を知っている人は、他者と関わる時にも一定の原則から外れるようなことはしないようになるのではないだろうか。もちろんこれにはある程度の深い反省が求められる。自分の身に起こることを、単に自分だけのことと考えているうちは、他者との関係にそれを応用することなどできないままだろう。けれども「どうにもならないことに対しては、自分は謙虚に、或いは素直になるしかない」と納得することができたならば、他者と関わる時にも無茶なことをしなくなるのではないだろうか。

 バランスのいい食事と、規則正しい生活、それと適度な運動。この3つを守ることを通して、無茶なことはしない人間であり続けたいものだなあ。