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人を測るものさし

27歳 コミュニケーション 内省

 人を測るものさしは、学歴と資格とSNS上の発言と、その他に一体何があるのだろう。ある人がいて、その人は本当はどんな人間なのか、どんな可能性を持っているのか、そういうことを直接確かめることができないから、その痕跡、その印になる様なものを探した結果、今のところは上に挙げたようなものだけが、ものさしになっている。長い間一緒に過ごせば、もっともっと多くの経験が共有されて、その人についてより多くのことがわかるだろう。しかし試験や面接の場合には、試す者と試される者との間に、共有された経験は存在しない。朝井リョウの『何者』の終盤でも、登場人物の一人がそういう趣旨の発言をする。

 少し前までは、そのものさしは、学歴と資格と面接やグループディスカッションでの発言くらいのもので、SNS上の発言がそこに加わるようになったのは最近のことだ。しかもたいていはネガティブな評価につながるということになったから、注意深い者はSNS上の発言を控え、結局その人の人柄を示す痕跡は外部に残らないままになってしまう。それでは、外に残った痕跡をもとにしてその人の内側にあるものを測ろうとする者にとっては、手がかりが増えないままになってしまう。

 以前にこういうことがあった。私があるときに発言したことを、別の人間が別なときに発言し、私の方はほとんどなんの評価もされず、別の人間の方はとても注目されていた。私とその人間の違いは、発言の内容ではなく、経歴だ。私はそのとき、人間というのはこれほどまでに、言葉自体を捉えることができないまま生きているのかと思った。こういう風に書くと、私が周囲から評価されなかったことを嘆く呪詛の言葉としか受け取られないかもしれない。けれども私が言いたいのはそういうことではない。私と同じように、経歴のない多くの人間が、ネット上では経歴がないために過小評価され続けている。「同一労働同一賃金」というならば、「同一表現同一評価」があってもいいのではないか。しかしそれは難しいだろう。なぜならば、ある者の書いたことの価値は、その言葉自体ではなくて、その人の年収や肩書きや、社会的地位によって決まるからだ。

 学歴主義は、ある意味では正しいのかもしれない。というのも、大学に入る時の努力が、その人のそれから先の努力の水準の上限をある程度決めているところがあるからだ。「大学受験の頃の自分が一番頭良かったと思う。」という発言を、電車の中でたまに耳にする。きっと例外はたくさんいるだろう。大学に入った後の方が努力している人間もいるだろう。それならばまだましな方だ。就職活動のときに、大学の成績という形で痕跡が残るからだ。もっともそれもかなり不確かな痕跡でしかない。アインシュタインの学生時代の成績は、彼が得意とする物理や数学の成績でも、上から二番目の評価だった。そんなアインシュタインが、今から100年前に示した「重力波」(gravitational wave)の存在は、つい最近になって観測され、彼が言っていたことは正しかったということになって大きなニュースになった。すでにこれだけ評価されているアインシュタインの示した理論でさえ、観測による裏打ちがなければ、この100年間はずっと机上の空論だった。理論というのは、とりわけ科学の理論というのは、常に理論だけで認められるということはなくて、その外側に「証拠」がなければ評価されない。その理論がいかに論理的に筋の通った一部の隙もないものであろうとも、実験や観測による裏付けがなければ、理論はどこまでいっても机上の空論だ。だから理論は理論だけで独り立ちできない。証拠があって初めて立つ者という意味では、私たち人間と同じく、二本足の存在だ。

 少し前に、東京理科大の過去問の英語でこんな文章があった。ある人物が高校生の頃の数学の先生について回想している文章で、その先生は「知識と理解」(文章では「knowledge and understanding」という表現が使われていた)ということについて、自分の頭だけを頼りにして、他の何にも頼ることなく掴み取るものだということを生徒たちに示していた。彼はそういうことを示すために、テストでは調べて答えることのできないような問題だけを出していた。生徒がその場で考え、すでにネット上に答えのテンプレートが転がっているような類いの問題ではなく、各生徒が、ただ自分の頭だけをもとに答えを示すしかないような、そういう問題を。

 人を測るものさしを作りたいと思って、去年までは大学院への進学を考えていたけれども、受験の直前になって、結局受験する気がなくなってしまった。その間も就活市場ではこれといった変化はなく、これまでと同じものさしが、これまでと同じように用いられている印象だった。内側にあって目には見えないものをうまく測るために、外側に表れたものを手掛かりにする。推理小説の中で、探偵はそういうことをし続けている。真相を知るために、真相自体ではなく、真相を示す「他の何か」を探している。証拠というのは、ある事が真相であることを示す外部の印だ。真相自体は目に見えないから、いくらでも創作が可能になる。だから、ある者の発言だけをもとにして真相を明らかにすることは難しい。発言以外の、もっと動かないものが欲しい。血痕やレシートや、防犯カメラの映像など、細工のできないものをいくつもいくつも集めてきて、それらを適切に組み合わせて、探偵は真相を明らかにする。

 探偵は社会の中にどれくらいいるだろう。つまり、ある人間がまだ語っていない真実を、彼・彼女の外側にあるものだけを手掛かりにして、正確に言い当てることができる人間は、どれくらいいるだろう。探偵がある人間を観察して、その人間がまだ語ってもいないことを言い当てるとき、幾つかのものさしをもとにしている。探偵に比べて、私たちが人を見るときに使うものさしは、とても少なく、また頼りない。しかしそれを嘆いてもしょうがないので、新しいものさしを作り、証拠によってその有効性を示すしかない。

 ひとつ参考になりそうなのは、「読者」という概念だ。読者というのは、作家がどこの大学を卒業しているかとか、どんな社会的地位があるかによってではなく、その作品自体が面白いかどうかによって、その人を評価することができる。もちろん「芥川賞受賞作家」「直木賞受賞作家」という表現が本の帯に書かれていれば、それに引きずられて手に取るということもあるだろう。しかしそういう賞に引きずられずに、純粋に作品自体が面白いから私はこの作家が好きだという読者も少なくない。そこに、人が人を測るものさしについての、いくらかの希望があるように思える。

 

 

何者 (新潮文庫)

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