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働くことの中にある自己満足

26歳 経済学 日常 思想

 働くことには、誰かから給料という対価をもらうことによって評価されるという他律的な側面と、誰からも評価されなかったとしても私自身が満足することができるという自律的な側面の、二つの側面がある。経済学では、市場における交換と分配を中心に据えるので、前者の側面のみを考察の対象とする。そして、前者の側面にのみ労働の価値があると矮小化してしまうと、どれだけの対価が支払われたか、言い換えればどれだけ稼いだかということによって、労働市場における労働者の価値(=給与の水準)が決まる。それはあくまでも、社会の中で、ある一人の労働者が果たす役割、占めるポジションに対する評価でしかなく、自己完結的な個人の評価はそこに含まれない。それは価格として他者に表示されることはない。

 自己満足というのは、それが自分の内側で完結するということが前提であるから、他者からの評価を必要としない。だから、そこには貨幣という媒介物によって表示できるような価値はないが、だからといって価値自体がないということにはならない。自己満足には自己満足なりの価値がある。たとえそれが給与には反映されていなくとも、やはりそうなのだ。そして、マルクスはその点を見逃してやいないかと考えている。

 マルクスは『資本論』の中で、商品の交換価値や使用価値を問題として取り上げるとき、どちらも他者からの評価を前提に置いて考えている。交換価値は他者との交換において決まってくる価値、そして使用価値は、ある商品を作った人とは独立に、それを買って使う人間がどのように使用するかということによって決まってくる価値として議論が進んでいく。そしてある労働者の労働をどう評価するかと考えるときに、マルクスはこの二つの価値によって評価するという姿勢を一貫している。このとき、労働の評価の主導権は他者に委ねられているという意味で他律的であって、そこに労働者自身がある労働についてどう考えているかということは入ってこない。

 労働の自律的価値というのは、あえて男女で比べれば、女性の方に比較的多い見方である。それはなぜだろうと考えてみるに、おそらくは男女というものが社会の中でどのように評価されているかという社会の基礎的な価値観を反映する差異ではないだろうか。女性は、なんだかんだと言っても未だに男性優位な社会というものを、一歩引いたところから見ているから、対等に評価されないことに、日常的に向き合っているからだろう。そういう経験の中から、労働の自律的価値ということを自然と受け入れるような態度というものが生まれてくるのではないかと私には思われる。

「ちゃんと生活できてさえいればどんな仕事でもいい」という言葉を、男性からはあまり聞かない。男性は、社会からの評価の大小を強調しがちだ。おそらくは、この「生活できてさえいれば」というところが、労働の中にある二つの側面のバランスをどうにか保つ、ギリギリの水準なのだろう。もし、生活が成り立たないレベルで自己満足の側面が重視されると、交換によって成り立つところの社会はぐらつき始めるだろう。

 そして、ここで「フリーター」という働き方が、果たしてどちらの側面が優位にあるかという意味で、考察の対象になってくる。もちろんそれは人によるけれども、生活できるレベルを下回るレベルで労働する者は社会からの評価を得にくく、初めから自己満足的な側面に寄りかからずにいられない制約はある。そういう制約というのは、本人に自覚されていようとされていまいと、労働する本人が、労働にどうにかしてやりがいを見出そうとするときの条件を規定している。もしその条件の中に、高い給与ということが含まれていなければ、それでも働くことのなかに何か意義を見出そうと努める労働者は、どうしても自律的な側面を意識せざるをえないという風になっていく。

 そして、日本において残業が多いことの背景、モーレツ社員の伝統、徹夜の美学のような、一連の「働くことって素晴らしい」式の伝統の背景には、社会の側から労働が評価されにくい状況、つまり不景気が影を落としているのではないだろうか。生活の中の素朴な実感に引きつけてこれを言い換えると、「給料が上がらない、でも働くのは楽しい」という風になるだろうか。景気というものは、このような仕方で、人々の労働観を、根底から左右する効果をもっている。そしてそれは大抵意識されないままなのだ。裏で糸を引いている黒幕のようなものなのだ。とりわけ不景気においては、労働の二つの側面のうち、自律的な側面によりかかる形で労働というものが定義され、説明されがちだ。もちろん、それを逆手にとって平然と搾取を行うブラック企業も出やすくなる。

 そしてここには、アジア諸国が国際経済に加わるという意味でのグローバル化による、先進国側での平均的な給与水準の低下圧力も加わってくる。AppleiPhoneを作ればX国の企業xが、それとほとんど同じような外見の、同じようなスペックのスマートフォンを、iPhoneよりも安い価格で作ってiPhoneと競争しようとする。消費者は当然のように安い方を選ぶ。そして大半の消費者は、低い給与水準において生活を成り立たせている。だから必然、iPhoneもまた、安く売らざるをえない。Apple自体は自社の製品を割引したりしないから、各国でそれを売る代理店である携帯各社は、あれこれのキャンペーンを展開する。そういう形で携帯各社がしわ寄せを受ける。

 最近になってしみじみと感じさせられたことだが、日本企業ですら、まるで中国や韓国、あるいはベトナムバングラデシュのように、安い労働力によって市場における競争に勝とうと自明のように考えている場合が少なくない。これが先進国の人間の考え方かと思う。つまり、他社よりも安い価格で同じような商品を提供し、そこで働く者の給与を低くすることによって、競争に勝とうとする発想である。しわ寄せは働く者に転嫁される。一体「搾取」や「労働生産性」という言葉の意味をわかっているのだろうかと思わざるをえない。

 働くことの価値というのが、貨幣の側から数字で表示され、そこで初めて労働の価値が評価可能になるとする捉え方は、逆に数字にならないものは価値でないという仕方で、評価の転倒をもたらす。ブラック企業や過労の問題というのは、こうした評価の転倒が起こったその後で生まれてくるのは明らかだ。つまり、お金に換算して払うのはこれだけ、あとはあなた方が自分で「主体性」を発揮して、仕事にやりがいを見出して、それで補ってくださいという風に利用されていく可能性が、労働の自律的な側面の方には、常に潜んでいる。「主体性」と括弧をつけて表記したのは、それが言葉の本来の意味での主体性でなくて、方便としての自己啓発に由来する欺瞞に過ぎないことを示すためである。

 このように考察を進めてくると、私は「働くことって素晴らしい」というような価値観に、ある種の危機感を覚えずにはいられない。それは中身がどうあれ結局は、強い立場にある者に、弱い立場にある者をうまく使うための、都合のよい口実を提供する効果を本来的にもっていると考えるからだ。「ものは使いよう」とはつくづく恐ろしい熟語である。

 そして、興味深いのは、労働を巡るこうした状況の中で、「働くことは遊ぶことと変わらない」という労働観が、裕福な人間たちを中心に展開されていることだ。ここに、フリーターと裕福な者たちの間の、皮肉な共通性が見られる。つまり給与水準という軸の中の一方の極には、相当の対価を得ていながら「働くこと自体が楽しい」と考える人間がいて、他方の極にもまた、半ば強制されるようにして「働くことって素晴らしい」という風に自分を説得せざるをえない状況に追い込まれた人間がいて、どちらも働くことの自律的な価値というものを表現しているのだ。これにはいささかの滑稽を感じるが、それほど笑えない。

マルクスから引用しよう。

交換価値を生み出す労働を特徴づけるものは、人と人との社会的関連が、いわばあべこべに、いいかえれば、物と物との社会関係として表示されるという点である。一個の使用価値が交換価値としてほかの使用価値に関連するかぎりにおいてのみ、いろいろな人の労働が、同質な、一般的なものとしてたがいに関連しあう。(続き2)だから交換価値とは、人と人とのあいだの関係である、というのが正しいとしても、それは物という外皮におおわれた関係、ということをつけくわえる必要がある。

カール・マルクス『経済学批判』武田隆夫他訳、岩波文庫

 

 家に帰ってもやることがないからと、タイムカードを切るのを遅らせて残業する人々というのは、経済学の中には存在しないことになっている。経済学の中に存在するのは、なるべく働く時間を減らして余暇を楽しみ、しかし減らしすぎると生活できないからと計算してバランスを取る人々だけだ。そこには労働の他律性だけが前提されている。そして労働の価値を評価する価格体系の中にも、他律性だけが居座っていて、自立性は外にいる。いないわけではないのだ。しかし、いるにはいるが、それは価格体系の外だから、変な形で方便に使われる。そしてこれが方便として使われる合理性については、経済学で説明できてしまうのだ。つまりこれは労働の価値の外部性である。それは労働を評価する企業にとっては、評価の対象にするインセンティブが存在しない。その外部性を内部性に切り替えて内側へくりこんでしまうと、どうしても労働の価格が上がってしまうからだ。経済学の体系の中に前提としては存在していないものが、それでも依然として経済学の原理によって説明されうるとは、なんという皮肉であろうか。