読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

手書きの文字に表れされるものについて

 ずっと長いこと自分のテキストをもらっていなかった生徒が、ついにテキストをもらったそのとき、裏に大きな文字で自分の名前を書いた。それを見た自分はなんということもなく「そんなに大きく書かなくても名前がわかればいいよ」と言ったが、その直後にそうではないと悟った。そんな単純なことでは済まされないのだと。

 彼が大きな字で名前を書いたのは、大きな字が好きだからでも、反対に小さく書けないからでもない。ついに自分がテキストをもらうことができたというその喜びが、字の大きさとなって現れたのだ。その思いは自らの喜びを表す適切な形容詞でも、一片の詩でもなく、文字の大きさとして表現されたのだ。私はそのことに思い至った。字というのは、それによって表現される言葉や字体だけがその人の思いを表しているのではない。そうではなくて、もっと他の経路で、もっと他のしかたで、表現者の思いが表出されるのが手で書かれた「文字」なのだ。

 近頃の私は、自分の手で文字を書くことがほとんどなくなってしまった。塾で生徒に何かを教えている時を除けば、私は自分の手で何かを書くことは全くと言っていいほどない。その代わりにキーボードで書くから、自分が書いているときには一定の書体、一定の大きさの文字を見続けていることになる。もちろんその文字を斜体にしたり、色を変えたり、大きさを変えたりすることはできる。しかし、私が手でそれをやってのけるときとは、何かが違っている。その違いの根底には、彼が大きな字で自分の名前を書いたときの、その思いと文字との間にある、ある不可分な関係が潜んでいる。

 さらに言えば、手書きとタイピングとでは、書ける内容にも違いがある。パソコンでは簡単にささっと図や表を書くことができない。はてなブログで記事を書くときに、HTMLを使える人間なら表現のバリエーションが多いだろうが、そうでない人の方が多いのではないか。そしてそういう多数派の人間たちにとっては、パソコンで書くということはすなわち、一定のサイズ、一定のフォントで文字を書くということを主に意味するということになるのではないか。パソコンを使う人間の多くは、ウェブデザイナーが実に多様な表現を行えるのに対して、実に限られた表現形式しか持たないことになる。

 「文字」と一口に言っても、手で書かれた文字なのか、タイプされた文字なのかによって、その内実は大きく異なる。それについて改めて思い返してみれば、筆圧などもそうで、パソコンにはタイプする者の筆圧に相当するものなど存在しない。誰がタイプしようと、明朝体明朝体であり、その太さや濃さはディスプレイの設定にしばられるのだ。ゴツゴツした文字、丸文字、斜めに傾いた文字、踊ったような文字、シュッとした文字、手書きの文字にはいろいろな文字がある。いろいろなというのは、フォントの数が多いということではない。書くものが自分で自分のフォントを作るという意味での「いろいろな」なのだ。単にフォントの数だけを問題にするならば、パソコンだって多くのフォントを持っている。しかし私たちが手で文字を書くとき、既成品の中から自分のフォントを選んで書くようなことはしない。ただ自分なりの文字を書くだけだ。きわめてナチュラルに、きわめてスムーズに、手の動きと私らしさが連動している。

 

 そのことに気づかされたという意味で貴重な経験だった。