読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

忘れもの

 あれやこれやといくつも話したいことがあったのに、いざ彼女を前にすると「あれ、何を話そうとしていたっけな。」と思う。そして彼女の家を出た後に思い出す。ああ、そうだった、と。

 

小学校の頃の通信簿。先生のコメントは「○○くんは落とし物と忘れ物が多いので気をつけましょう。」だった。遠足で母の大きな水筒を忘れたことを思い出す。

 

色んなことを過去や現在の自分以外の誰かの経験から学ぶことの方が多かったせいか、小さい頃から時系列の記憶がとても弱い。以前こんなことがあったよね、と言われて思い出せない。

 

自分の過去の経験すら意外と覚えていられず、今読んでいる本や記事の内容がそこへさっと入り込んできて、場所を取ってしまう 。ホスホジエステラーゼが、3日前の夕飯の献立を押し退ける。

 

図々しくはないが、やってくると自然と席を取ることになる、まるで電車に乗ってきたカップルのようだ。

 

自宅へ向かう道すがら、いつもの階段を下りる。脇には樹が植わっている。キンモクセイの香り。半月ぶりくらいにこの香りを嗅いだような気がして、このことも後で彼女に話そうと思っていたのに、そのときになると出てこない。

 

そして彼女の家を出るとすぐに、キンモクセイの香りに出会う。行きは気がつかなかったのに。そしてそこで思い出す。しまった、と。

 

忘れものは次から次に生まれる。人は忘れる生き物として生きている。忘れることもまた、人生の中で受け入れなければならないことのひとつだ。自分が特別頑固であることを差し引いても、「受け入れなければならないこと」というのは、なぜだかどれも難しいことばかりのような気がする。

 

さて、この文章を書いている自分は、今まさに何を書き忘れ、そしてこれから何をし忘れることになるのだろう。

 

キンモクセイの香り。思い出せ、自分。