25歳
25歳という歳は、「もう子供じゃないんだなあ。」とか「大学生でもないんだなあ。」とか「大人になるってこういうことなのかな。」みたいなことをあれこれ考える過渡期のような時期に当たるんだろうか。自分はそういうことをよく考えるようになった。
もちろん大学を卒業して、社会人になった人たちは、一年目からそういうことを考えるようになったんだろう。そしてそんな人が25歳を迎える頃には、自分よりも2歩も3歩も先を進み、一人前になっていきつつあるんだろう。色々な焦りも伴いながら。
「こういうことが大人になるということなのかな。」と考えるとき、その答え合わせは、できないことの方が多いような気がする。自分の場合はその答え合わせは「親に聞く」くらいしかない。そしておそらく、親でさえ、本当のところは正解なんてわからない。正解は、そもそもないのかもしれない。
それでも半ば強引に、「こういうことが大人であるということである」というリストが出来上がっていく。そのリストにしたがって、自分が組み替えられ、恰もOSがアップデートされるかのごとく、変わっていく。
そしておそらくそのアップデートが済むと、もう以前の状態には戻れないような感じがする。一方通行の片道切符で、そこに行き着いてしまえば、もう後戻りはできない。
「青春とは心の若さである」というのはヘルマン・ヘッセの言葉だ。どうしてこんなときにヘルマン・ヘッセを思い浮かべてしまうのかと思うが、やっぱりこの言葉は大事にしたい言葉の一つだ。
塾で中学生や高校生と話をしていると、灰色のような自分の中高生時代の時間を取り戻すリハビリをしている様な感覚に陥ることがある。なんでもかんでも自分だけの力で、自分の頭を使って解決しようとして、他人に頼るということが嫌いだった中学生、高校生の頃の自分が、少しずつ丸くなっていくような感覚を覚える。それがいいことなのかどうかはわからない。
そしてそういうとき、自分は確かに心の若さを取り戻している様に思える。仕事柄、生徒に対し、「大人」であることを求められていても、彼ら・彼女らの前で、自分は昔に戻る時間の方が多い。そしてそのとき、自分はまだ「こちら側」にいるような感覚がある。
こっちとあっちを行ったり来たりしている。しかしそんな足取りを失いたくはないと思っている。どちらかにずっと居続けるのは、なんだか落ち着かない。
25歳もあと3ヶ月弱。80数日。
26歳になってもこの過渡期は続くし、27歳でも同じなんだろう。30までなのか、35までなのか、或いは40なのか、わからないし、また人それぞれでもあるだろう。
柔軟さと好奇心さえ失わなければ、他の大切なものは失わずに済む。
柔軟さがあれば人とはうまくやっていける。
好奇心さえあれば誰からでも、何からでも学ぶことができる。
柔軟さがあれば間違いを正し、よりよい方向へ舵を取れる。
好奇心があれば同じ人と長い時間やっていける。普通の人はそれを「愛」と呼ぶみたいだが。
柔軟さがあれば考え方を変えられる。視野を固定化しないでいられる。何より自分が変化し続けることができる。
好奇心があればぶれずに真摯に向き合うことができる。常に問題に向き合い続けることができる。
勇気とか、リーダーシップとか、包容力とか、そういうものには目もくれず、柔軟さと好奇心だけを大事に抱え込んでいれば、そこから他の副次的なものたちをいつでも生み出せる。
ゆとりをもって、シャープに進んでいきたい。