かつて自分がいた場所に、今いるその人

この記事は多くの記事のひとつであるにとどまらず、他のいくつもの投稿とのネットワークの中で「ハブ」として機能することになるんだろうな…。

 

 

0. 回想から #心理 #日常

 なんとなく落ち着かなくて、やるせなくて、どうして自分はこんな状況に置かれているんだろうと思った、そんな場所があった。それは私の心の中に広がっていた。

 

私にしかなくて、きっと自分が頭の中で作り出した、ひとつの「フィクション」のようなものだろうと思っていた、そんな場所があった。

 

そんな場所のことは、同じ経験を繰り返すことのない、空白の時間が積み重なるにつれて記憶から薄れていって、すっかり忘れてしまうところだった。

 

それでも先日、もう2週間くらい前になるだろうか、私のすぐ目の前にいる他人が、同じような状況に陥っているように見える、そんな状況に遭遇して、その場所のことを期せずして思い出すことになった。

 

 もちろんその場所は、「渋谷」とか「押上」のような、現実に存在する場所のことでなはなくて、状況によって心がそこへ押し込まれる、心理的な場所だから、その他人が私と同じ様にその場所を経験していることを確認する手だてはないのかもしれない。その人の心の中の現実に分け入っていく技術を、少なくとも今の私は持ち合わせてなどいないし、また知りもしない。

 

 それでも確かに、その人の置かれている心理的な場所というのは、かつて私が経験した場所と、同じである様に思えてならなかった。かつての私が「私だけの固有の場所である」と思っていたその場所に、目の前の他者もまた、今まさにその身を置いている、そう感じた。

 

 するとその心理的な場所というのは、何も個人の心の中に独立に存在するものなんかではなくて、時と状況とがうまく交差しさえすれば、誰でも入り込めるような場所だと言えるのかもしれない。それは個人の属性によらず・・・いや、ある程度は性格や気質のようなものによって方向付けがされていて、こういう人はこういう場所に入り込みやすいということがある様にも思えるけれど、それでも一人一人異なる固有の場所というわけではないのかもしれない。

 

そこから出発した私の考えは、おおむね次のような道筋で進んでいった。

 

1. 何冊かの本との関連づけ  #社会物理学 #経済学 #無意識 #脳 #生理学

1.1. 個人が意識的に考えることと。経済学とゲーム理論

ーーーーーーーーーーーーーーー1冊目ーーーーーーーーーーーーーーーー

ちょうど最近読んでいる本で、『データの見えざる手:ウェアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則』(矢野和男 2014年)という本がある。

 

ここからちょっと本の解釈モードに切り替わるので、お急ぎの方は「」まで飛ばすといいかもしれない。

 

今日も電車の中で読んでいたらこんな一節があった。

第5章 経済を動かす新しい「見えざる手」

 第3節 経済活動を科学的に解明するにはどうしたらいいか 

の一部をいくつかに分けて引用していく。

 

【Citation 1】 

「購買のような人間行動を理解しようとするとき、我々は、普通、その人が内部に持っている動機や意識、心に動かされて、その人の行動が生じたと考える。経済学もこの立場で構築されてきた。経済学においては、人の購買行動は、人の内側にある価値の基準(これは「効用関数」と呼ばれる)で決まるとされてきた。複数の選択肢があるときに、効用が高まるような行動が選択されると考えるわけである。」

(同書180ページ、太字は引用者による)

 

【Comment 1】

 経済学では、消費者や生産者などの経済主体は「独立した合理的個人」と仮定されることが普通だった。標準的な経済学の立場(「古典派」新古典派などと呼ばれる)では、それらの「合理的個人」によるミクロな経済行為を何らかの指標を通して集計することで、インフレや失業、バブルなどのマクロな現象を考えてきた。(「マクロ経済学」の話。)

 

代表的個人の相似拡大的な集計によるマクロ経済理解。

 

 ここで重要なのは、各個人の行動は、一人一人の頭の中で、周りに影響されたりはしないで、理性的(rational)に決定されるというところ。そこには「場(field)」或いは「文脈(context)」とか「相互作用(interaction)」による影響は抜け落ちている。「場」とか「相互作用」と書いたけれど、これも言葉の使い方が難しいところがあって、経済学でもこれらを考えていないわけではない。

そもそも経済学の大目的に「市場を通じた有効な資源配分を考える」ということがあるから、「市場」に多くの人が集まって活動をする以上、「相互作用」が抜け落ちているということはありえない。市場という「場」で起きているのは相互作用以外の何物でもないだろう。

 

しかしそれでもやっぱり、各個人の行動の決定に至るプロセスの部分をみると、各個人がそれぞれの頭の中で…ということになっている。それは「意識的(conscious)にということでもある。裏返して言えば「場や文脈に影響されずに(free from the field or the context)」となる。

 

 他人がどう考えているかなどお構いなし。そんなことに悩まされたりせず、自分の頭で合理的にクールに考えて、サクッと実行する…。そんなイメージを抱く。

 他人がどう考えているかを気にする立場もある。#ゲーム理論がまさにそれで、これはもう他人の頭の中を抜きにしては行動決定に到達しない体系とすら言える。#囚人のジレンマは、一方の囚人が他方の囚人の頭の中を気にかけることから生じる。

 

 他人を気にしないか、気にするか。そのどちらにせよ、共通しているのは「意識的に考えて行動が決定されている」ということであって、そこには人間の意思(will)をどう捉えるかということに関しての共通の基盤があるように思える。つまり、人間には自由意志(free will)があって、あなたも私も彼も彼女も、それぞれの自由な意志によって主体的に自分の行動を決めているのだ、と。

 

1.2. 脳で考えること。神経科学と生理学。

そろそろ次の引用に移ろう。「頭の中のこと」ということで、「脳」について

【Citation 2】 

「最近では、脳の活動部位が計測できる。これを活用し、心や意識を、脳という物質とそこで起きるニューロンの発火や脳内物質(ドーパミンなど)の分泌という生理現象で置き換えて説明されることが増えている。しかしこれも、その人のうちにある何かに原因を求める点では、従来の効用関数による理解と似ているところがある。」

(同書180ページ)

 

【Comment 2】

ーーーーーーーーーーーーーーー2冊目ーーーーーーーーーーーーーーー

ちょうど最近、自分の中では#神経科学#生理学がマイブームになっていて、これらに関連した書籍やニュース、記事を中心に目にする様にしている。アンテナもその辺に向いて張られている。

そのマイブームの一つとして、『快感回路』(D.J.リンデン)という本を読んだ。最近河出書房から文庫版が出たので、書店で見つけて思わず買ってしまい、すぐさま読んだ次第である。

 

快感回路---なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか (河出文庫)

快感回路---なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか (河出文庫)

 

この本では通常#報酬系と訳される言葉#reward system「快感回路」と訳していて、#ドーパミンの働きを中心に、ヒトが快感から逃れることがなぜ難しいかということをいくつかの分野で多くの実験を通じて検証している。ネズミの実験も繰り返し登場し、彼らは自分たちの脳内の状態に忠実に反応して行動する。

 

1953年、モントリオール

ピーター・オールズとジェームズ・ミルナーの2人は、箱を細工し、レバーを押すと埋め込まれた電極を通して直接脳が電気刺激を受けるようにして、その中にラットを入れた。

結果はとても印象的で、ラットは自分の脳を刺激するために1時間に7000回のハイペースでレバーを押し続けた。次にこの行動は脳のどの領域に対応するのかを確かめる実験が

行われたが、どこか一つの領域だけが関わるということはなく、#腹側被蓋野#側坐核#内側前脳束#中隔#視床#視床下部などが複合的に関わっているということがわかった。これらの領域が脳内の報酬回路を構成する。

薬物依存、肥満、ギャンブル依存、セックス依存などのネガティブなトピックだけでなく、慈善行為、瞑想、神秘体験、社会的な評価を受けることなどのポジティブなトピックも取り上げられている。

「これらのことはすべて、#内側前脳回路の活動やドーパミンの分泌量の多寡に還元することができるのか」ということについての著者D.J. リンデンの立場は「イエスでもあり、ノーでもある」というもので、内側前脳回路の活動やドーパミンの分泌量に有意な変化があることは確かであるという意味で「イエス」、それだけで説明がつくわけではなく、こうした現象には脳の他の領域も協同的に関わっているという意味で「ノー」ということである。

この「イエスであり、ノー」をサッカーで考えると、「優秀なゴールキーパーである」という意味で彼のはたらきぶりは重要だが、彼だけで試合ができるわけではない、という感じ。

しかしやはり、原因の範囲はある個人の脳内、あるいは身体のレベルにとどまることに違いはなく、例えば他者の内側前脳回路の活動やドーパミンの分泌が、#ミラーニューロンに媒介されて他者に影響を与える、というような形での相互作用はないものとされる。これは「ある個人の脳における現象」を扱う、#神経科学の学問としての立場上、当然と言えば当然のことでもあるかもしれないが。

 

1.3. 独房か公園か。自律か相互作用か。社会物理学。

 【Citation 3】

「しかし、私は、身体運動をウェアラブルセンサで測定する研究を進めるうちに、これらのアプローチに違和感を持ちはじめた。それは、これまで人類が、複雑な自然現象を理解してきた研究方法と、人間の内面に原因を求める研究方法が根本的に異なっていると気づいたからだ。

 発想のきっかけは、「人」を「原子」に対応させ、「社会現象」を「自然現象」に対応させるアナロジーである。第1章で示したように、人間行動は、原子のエネルギー分布と同じ式に従う。この対応関係は、偶然ではなく、どちらも資源を、構成要素間で繰り返しやりとりすることに起因する。その特別な場合が原子のエネルギーであり、行動の象徴としての腕の動きの回数なのだ。

 この対応関係に沿って、自然現象を解明してきた理論を振り返ってみよう。

 これまで自然現象は、原子と、まわりの原子集団とが相互作用する複合システムとして理解されてきた。たとえば、水蒸気がある温度以下で液体になり(凝集)、金属がある温度以下で電気抵抗がゼロになる(超伝導)のはどう理解されてきただろうか。これらの現象は、水や金属を構成する水素や銅の原子の性質をいくら詳しく調べても説明できない。物質を構成する原子がそのまわりの原子に影響を与え、同時に、まわりの原子集団が作る「場」(電磁場など)から、着目する原子集団は影響を受ける。この原子とまわりとの双方向の相互作用により、これらの自然現象は理解されてきたのである。」

(同書180、181ページ)

 

【Coment 3】

赤の太字にした箇所の表現を読んでふとこの本を連想した。

ーーーーーーーーーーーーーーーー3冊目ーーーーーーーーーーーーーーーー

『人は原子、世界は物理法則で動く—社会物理学で読み解く人間行動』(マーク・ブキャナン 2009年)

原題も”The Social Atom で、「いかにも」という感じ。

 

人は原子、世界は物理法則で動く―社会物理学で読み解く人間行動

人は原子、世界は物理法則で動く―社会物理学で読み解く人間行動

 

 この本の冒頭、「はじめに」ではニューヨークやシカゴなどのアメリカの都市で起きる人種間の居住地の分離をどう説明するかという例が挙げられている。常識的にはこうした居住地の分離は人種差別と関係が深いと捉えられがちだが、ハーバード大学の経済学者トーマス・シェリングは、目につきにくいもっと重要な要因が見過ごされているのではないかと考え、独自の方法で研究にとりかかる。

 

彼はチェッカー盤(オセロと同じ市松模様の盤)と硬貨を使って人種の分離を説明するモデルを考えた。

チェッカー盤の各マスは居住地を表し、硬貨はそれぞれ特定の個人を表すとして次のような仮定を設けて人の移動の様子を調べた。

 

仮定 ver.1〕

各個人は人種差別を当然視しており、周囲に一人でも自分と異なる人種がいる場合は「転居」する

 

これで各硬貨を移動させていくと、たちまち人種ごとの分離状態ができあがった。しかしこれでは特に目新しさはなく、さきほど挙げた常識と変わらない。

そこで彼は次に別の仮定を設けた。

 

〔仮定 ver.2〕

どの人種の個人も他の人種の個人と隣接して暮らすことに満足してはいるものの、周囲の人間の中で自分がただ一人の人種である場合には転居を行い、その他の場合には転居しない。

 

この仮定で硬貨を動かしていっても、人種間の分離状態が現れた。それでは現実の人種間の分離状態の「本当の原因」は〔仮定 ver.1〕の方か、それとも〔仮定 ver.2〕の方か…。

 

 ここで注目したいのは、2つの仮定の違いで、〔仮定 ver.1〕は「個人の内面の属性」(この場合は人種差別意識)についての仮定であるのに対して、〔仮定 ver.2〕の方は個人の内面というよりはむしろ、他者との関係によって個人がどう行動するかという、「相互作用」についての仮定であるということ。

 

社会現象の原因や進行は、個人の内面の属性、もうちょっと耳慣れた言い方だと個人の性格とか気質といった、心についての要因によって決まるものなのか、それともそれは問題でなく、個人がどんな内面的属性を備えていても、周りとの関わりによって、相互作用によって決まるものなのか。

 

2. 原点回帰。→0へ戻る

ウェアラブルセンサを用いたデータの解析を中心に、経済学、ゲーム理論神経科学、社会物理学の話をちょこちょこと進めてきたが、ここで冒頭の「心理的な場所」に戻って考えよう。

〔仮定 ver.1〕で考えると、自分がかつて経験した心の場所は、自分と同じような他者、自分と同じような内面を持った他者でなければ経験しえないということになる。

〔仮定 ver.2〕で考えると、自分の経験した心の場所は、周囲との相互作用のパターンによって生じるもので、パターンが同じであれば誰でも経験しうるということになる。

 

暫定の結論は、後者だ。おそらく自分に限ったことではなくて、周囲との関係次第では誰もが遭遇しうることなんだろうな。

 

かつて自分がいた場所に、今いるその人に、私はそのときどんな風に言葉をかければよいのかわからなかった。自分がかつて経験したときにどう感じたかを思い出すことができた後でさえ。私はその心理的な場所に身を置いた経験と、それを他者が経験するのを観察するという経験の2つから何を学び取ることができたんだろう。

 

しくみが理解できたとしても、それがイコール「対処ができるようになること」を意味するわけではない。書いてしまえば陳腐でありきたりなことだけれども、自分が理解した状況に対してメタな立場から反応していくには、その状況に対する構図だけではなくて、何らかの具体的な行動の指針がなければならない。

 

どんな指針を獲得しようか。