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鏡も私を作る。ただし他人や食べ物がそうするのとは別様に。

今、僕の自宅には姿見がありません。洗面台に鏡はあるのですが、全身は映りません。

 イメージの食い違い

僕は割に服装にはこだわる方なのですが、姿見がないと目で見て確認する像(image)と「自分は他者からこう見えているだろう」という、目は使わずに頭の中だけで作った像(self image)が食い違ってしまうことが近頃増えてきたような気がしてきました。まあここは言葉の使い方が難しいところがあって、厳密に言えばどちらの像も「頭の中の像」ということに違いはありません。けっきょくは脳内現象ですから。「目で見て確認する像」と書いてみたところで「…と私の脳が認識した結果生まれる像」ということになってしまうので。

 

「自分の容姿に自信のある人は鏡を頻繁に見る」とよく言われます。自分も鏡で自分の顔や姿を観察したりすることはよくあります。というのも、基本的に僕は人間観察が好きなので、「一番多くの時間観察できる人は?」ということで自然と自分を観察することになるわけです。自分なら迷惑もかかりませんし。

 

鏡についてちょっと文化的なことを…(脱線ではありません。たぶん。)

 おそらくですが、鏡が自分の姿を映す道具として用いられるようになって以来、「一番観察するのは自分自身」という人が増えたのではないかと思います。

 鏡はそもそもは宗教的な、或いはもう少し古い雰囲気の言葉を使うと呪術的な道具として使われていました。日本だけでなく、ヨーロッパでもアジアでもそうです。なぜか。

 

これは鏡を生まれて初めて見て、そこに自分自身の姿があることを知ったときの気持ちを想像してみればわかります。なぜか自分と同じように動くやつがそこにいる。鏡はどうして自分の姿を映すことができるのかちゃんと説明できる人は、今でも少ないと思います。呪術的・宗教的精神の起源になりうる経験は多様ですが、この鏡もまたそのひとつです。自分の理解を超えたものに触れたとき、人はそこに神のようなものの存在を漠然と感じ取る、というのであれば、現代でも、鏡がどうして姿を映せるかを説明できなければ、そこに呪術的・宗教的精神が芽生える種があると言えるかもしれません。

ところで僕はさらっと「自分自身の姿がある」と書きました。なぜ「自分自身の姿が映っている」ではないかというと、そもそも「映る」という言葉は鏡を抜きにしては説明できないからです。初めて鏡の中の自分を見た時点では、まだこの「映る」という言葉は使えないはずです。

 

いやー、言葉を使うには何かと注意力が要りますね。笑 あ、ちなみに鏡がなくても水面を見ればいいじゃないかと思った方もいるかもしれませんが、水面も「水鏡」と言ってれっきとした鏡の一種です。オランウータンは水鏡を使って毛繕いをすることで知られています。

 

実は日本で今でも、鏡が単なる鏡以上のものと人々が捉えている例はあります。合わせ鏡を避ける、夜には鏡を伏せたり布で覆ったりすることなどです。

日本の場合には鏡は古来より神器の一つとされています。「神器」とまで言われる理由も先ほどの「呪術的・宗教的なんたら」のくだりを思い起こすと納得できる感じがします。

(この辺の事情に興味のある方はマーク・ペンダーグラスト著『鏡の歴史』を読まれることをお勧めします。けっこうボリュームがありますが、面白い本です。)

 

今回も「記号化」します。イメージの記号的表現

 さて本題に戻ります。鏡というのはこのように宗教的ないし呪術的な道具として用いられ始め、後に自分の姿を映すものとしての用途が生まれることになったわけですが、ここで鏡は「イメージの調整装置」という役割を担うことになりました。頭の中で想像されたイメージと実際の視覚的イメージの間の「ギャップ」がどれくらいあるのかということを、私たちは鏡で自分の姿を見るたびに意識的・無意識的とを問わず確認しているはずです。このギャップを記号を使って表すとしたら次のようになるでしょう。

 

I(VM)⇔I(I)

I( ): Image

I(VM): [VM: Visual in Mirror]  鏡を通して見た視覚イメージ

I(I): [I: Imaginary]  想像されたイメージ

 両者がイコールでないとき、そこにはギャップがあることになります。

 

もしこの調整に失敗したらどういうことになるでしょうか。考えてみるとこういうことは日常的に至るところで観察されます。4つほど例を挙げてみます。

①思った以上に寝癖がひどいことに気が付いた瞬間

②思った以上にジーンズのダメージ(裂け目)がひどいことに気が付いた瞬間

③似合っていると思っていた上下の洋服の組み合わせが、街中でガラスに反射した自分の姿を見てそんなに似合っていないことに気が付いた瞬間

④帰りの電車の中で、吊革につかまって電車の窓ガラスに映る自分の顔が、思った以上に疲れた表情をしていたことに気が付いた瞬間

①~④はすべて、I(VM)≠I(I) の例だと言えます。

 

計算として考える 

 ちょっと見方を変えてみると、イメージにギャップがあるということは、自分の外見に関するイメージを想像によって作り出すときに、脳内で像を作る計算に失敗した例と捉えることもできるでしょう。

(ここで「失敗」というのは鏡に映る自分の姿を「正解」として、それを頭の中でどれだけ再現できるかという「再現性」をもとに考えたもので、鏡の像と離れれば離れるほど、大きな失敗ということになります。)

 ヒトの脳内では日常的に様々な種類の計算が並列して行われています。単に歩くだけでも、前に倒れないように体のバランスを保ち、足を交互に前に出し、時には立ち止まり、方向を変え…とけっこういろいろやっていることがわかります。そしてそうやって歩いている間に夕飯のメニューを考えていたりするのです。右手には鞄をもちながら。視界には色々な人やものが入っては消え、車や靴の音、鳥の声などが聞こえ…ということも並行して。

 

さてこのような脳内の神経細胞のネットワークを使った計算の中に、「自分自身の姿を確かめ、それをもとに自分のイメージを作り上げられるようになること」というのは必須項目として含まれるでしょうか。 

 

「鏡を見る」ということはこのイメージ計算の答えあわせだという風に考えることができます。もし答えあわせをしないまま計算をし続けたらどうなるでしょう。例えばかけ算の計算を子どもに覚えさせるとき、答えあわせをしなかったらどうなるか。子供は間違った計算の仕方を覚え、その計算方法が頭の中で固定化してしまうのではないかと推測されます。

 

これほど鏡が老若男女を問わず日常的に使われるようになった今となってはもはや思考実験ですが、もし生まれてから死ぬまでの間に、自分の姿を一度も確認することのなかった人がいたとしたら、その人はどういうことになるんでしょう。そこがわかれば、普段何気なく使っている鏡の意味も、もっとちゃんと理解できるようになる気がするのです。

 

果たして鏡の登場の前後で、ヒトのセルフイメージの構築力についての変化がもたらしたものは一体なんだったのでしょう。もしかしたら鏡というのはお金や政治制度、活版印刷術、蒸気機関、原子力スペースシャトルiPhoneなどとは別次元の発明だと言えるかもしれません。これほどヒトの視覚、自己認識と密接に結びついた道具もそうそうないでしょう。

 

鏡ひとつで考え過ぎ?いえいえ、ちっとも考えが足りません。

鏡の歴史

鏡の歴史