新書とハイパーリンクとランク付け

 

時間軸上の棲み分けの混乱と短期ブラックホール

 加計学園東芝SMAP解散など、不祥事や事件が起こると専門家は原因追求、マスメディアは主に犯人探しに奔走し、大衆はマスメディアの情報を通して「犯人(責任者)は誰か」に関心を向ける。東芝のトップは誰か、東電の幹部は誰か、安倍総理の側近の官僚は誰か…。一方で「そういう事件が起こった背後にはどんなメカニズムがあるのか」というようなことについて書かれた記事は少ない。専門家による調査や分析がなされ、その成果が公開されても、それは大衆とマスメディアのどちらからも目につかないような、目立たないところにあったりする。

 大衆とマスメディアがソーシャルメディアを介して相互作用している頃、専門家たちはその場からは少し距離を置いて迂闊な発言は控え、事件の詳細を調べることを優先する。専門家の作業には時間がかかるが、やがて形がまとまれば書籍化を通じて社会にフィードバックされる。もちろん専門家の中には、事件が進行している最中に自身の専門的判断を示す記事を書いてソーシャルメディアに投稿する人間もいる。けれどもそれは、他の多くのわかりやすいセンセーショナルな報道なり投稿なりの影にかくれて目立たないことが多い。

 マスメディアによる報道と専門家によるフィードバックはそもそもタイムスパンが異なる。それはそれぞれが果たす役割の違いに由来する。いわば「時間軸上の棲み分け」である。マスメディアは事件の推移についてなるべくリアルタイムに近く報道し、一方で専門家は時間をかけて事件の内容を検証し、その内側にはたらく論理や他の事件との関係、あるいはその事件が起こる背景にはどういう要因が存在するのかといったことについて、まとまった分量の作品を出して世間に知恵のフィードバックを返す。たいていは大衆が特定の話題に飽きた頃、経済的な論理に従ってマスメディアが話題を変えた頃になって初めて、書籍が登場する。しかし書籍は、犯人探しに目を向けた人々の数に比べればごく一部の物好きたちにしか届かない。知恵は社会にフィードバックされても、共有されなければ意味がない。

 書籍というかたちで結晶化した知恵が機能不全になった背景には、ソーシャルメディアの影響力が増した状況がある。ソーシャルメディアでバズるかどうかは短期的な現象であって、バズらなければ人々は目にする機会がない。そもそも目にされなければ、それは存在しないのと同じであるという考えから、マスメディアだけでなく専門家たちもまた、バズるかどうかという短期志向に引っ張られてしまう。ソーシャルメディアの普及が生み出した「短期レース」というところだろうか。

 そして書籍化にも階層が生まれ、大体は参考文献も索引も適当な新書でお手軽に「結局どうすればいいのか」という処方箋を強調する短期志向なものばかりが書かれ、「どうしてそういう対処法がいいと考えたのか」に十分な紙幅が割かれなっている。理解なくして応用はできない。結果だけを示されて過程を理解する努力を怠っていても、応用などできるはずがなく、そういう本を読んでいてもうまくいかないのは当たり前のことではないかと感じる。

 たとえば「時間がないからさっさと結果だけを教えてくれ」と言われて、「E=mc^2」という式を示したとして、それを現実で応用できる人が何人いるだろうか。一方でどのような過程を経てこの式ができたのかという導出の過程まで含めて式を丁寧に理解した人間は、結果だけを示された人間よりも応用がきくのは自然なことだろう。過程を理解するには時間がかかるし、過程を示すのにも時間がかかる。それでは短期レースに飲み込まれず、時間軸上の棲み分けをうまく機能させるにはどうすればいいのだろうか。これについて考えるためのとっかかりとして、新書とカリキュラムの機能から始めようと思う。

読書のカリキュラム

 新書とは別に単行本も存在するが、新書しか読まない人は単行本へアクセスしづらい。この点はもう少し説明が必要だろう。新書ではよく「はじめに」の部分で、「あくまでも本書を足がかりとして、〇〇の分野の奥深さを探求し続けて頂ければ」云々といった但し書きがある。しかし紙幅の都合のためか、巻末に参考文献がないこともよくあって、「この後は何を読めばいいのか」がわからないままになってしまいがちなのがもったいないと感じる。

 ここでまず私個人のこだわりについて触れておく。「青森県民は…」や「20代の女性は…」などのカテゴリーで個人を判断するのが偏見につながりかねないので注意が必要なのと同様に、書籍においても「ライトノベル」や「新書」といったカテゴリーで内容の善し悪しを判断したくはない。その意味では「新書だからよくない」と考えるより、「新書がうまく活かされてない」という方向で考えたい。これが私のこだわりである。

 新書は一般に、ある分野や問題について考えるための入口、導入、入門書という位置づけで書かれることが多い。それを反映して、「はじめに」の中であくまで導入ということを強調する一文が挿入されることも少なくない。問題は入口、導入、入門書の「その先」へのアクセス方法が新書の中で示されているかどうかという点にある。

 これを大学の講義にたとえると、初回のガイダンスや各回の講義の冒頭(イントロ)に相当するのが新書であって、それ自体は必要であることは間違いないが、それだけで完結してもらっては困る。もし大学の講義でガイダンスしかなかったり、講義の冒頭のイントロで終わってしまったら、学生はどう思うだろうか。

 新書という媒体は、もしもそれが導入として書かれたものであるならば、その新書自体を含む複数の書籍を読むことがカリキュラムのように想定されていることが重要で、そういうカリキュラムを構想するのは著者でも編集者でもその両方でも構わない。「さらに知りたい方のために」と巻末で関連書籍を紹介している新書の場合、複数の媒体にまたがった読書経験のカリキュラムについての構想を著者が示してくれている。講談社ブルーバックスなどの理系の本ではこういうものがけっこうある。「自分の媒体を超えて他の媒体を跨ぐ」というインセンティブは著者にしかないのだろうか。

 私がここで新書の抱える問題やカリキュラムということを書いたのは、新書を読むのは短期であり、カリキュラムは長期であるということと関係する。言い換えれば新書しか読まないというのはマスメディアの報道に触れているのと本質的にはあまり変わらず、一定の時間をかけてカリキュラムのようなものに沿って複数の本を読むということをしなければ、本当は知恵を得ることはできないのではないかと考えるためである。もちろんマスメディアの報道だけに触れているよりは関連する新書を1冊読む方がましではあるが、ある問題の全体像を理解するには、新書で十分という想定は、私にはできない。

 WELQなりNAVERなりの「キュレーションメディア」*1が生まれる前からずっと、思えば「本」こそがもっとも質の高いキュレーションメディアとして機能し続けてきたのではないか。正確な情報を知りたいと感じる人間が、雑誌や新聞やテレビ番組でなく、単行本として出版された本を参照するのもこういう認識が背景にあるのではないか。そしてこの「キュレーションメディアとしての本」という定義に即していえば、ウェブにおけるハイパーリンクと同じように、本はその本来のポテンシャルが十分に発揮されてないのではないか。

 ここでいきなりハイパーリンクがなんの脈絡もなく登場したように思われるかもしれないが、1冊の新書で終わらずに他にも複数の本を読むという発想は、ハイパーリンクの前提にある発想とも共通するというのが私の考えである。次節ではこの点について説明しようと思う。

ハイパーリンクの哲学

 ハイパーリンクというのは、ある一つの単位がそれ単体で完結していることが稀であって、それと関係する他の複数の単位と結びつくことで一つの全体像が明らかになるという、本や論文の構成と通じる認識が背景にある。物事を何かひとつの単体で理解するのではなくて、複数の要素の関わりとして捉えるといってもいい。しかし人々は、検索エンジンを使い続けるうちにハイパーリンクのこうした基本認識から離れ、「自分が知りたいことと一番関係ありそうなページ」のランク付けにどっぷり浸かり続け、もはやそのことに疑問すら抱かなくなってしまうほどに慣れきってしまったのかもしれない。人間に限ったことではないが、生物は反復によって外的環境に適応する。それが道具との関わりであっても事情は同じであるようだ。

 ランク付けを至上命題とする検索エンジンに対して、Wikipediaのいいところは、検索ボックスに打ち込んだ語句との関連性よりもむしろ、個々のページどうしの関連性を整理することに主眼を置いて作られているところではないか。「何か一つのページを見ればそれで解決!」ということを防ぐ可能性がシステム自体に初めから内在しており、当然ながらそれはハイパーリンクの思想とも相性がよい。Wikipediaは内部のページどうしのハイパーリンクだらけである。この結合は極めて自然なものに思える。

 これに対してGoogleで検索結果として表示されたページのリストでは、1位が一番のあなたの関心に関連性があり、2位が2番目、3位が3番目に…と続くが、1位と2位のページはお互いにどんな関連性があるのかということは重視されない。そこがWikipediaとは明確に異なる。

 マスメディアと書籍というメディアの間の棲み分けと短期のブラックホール、短期のブラックホールに影響されるように生じる新書ブームと読書のカリキュラム、そしてハイパーリンクについて順を追って述べてきた。ここまできてようやく、これらのことがらと私個人の特徴との関係が示しやすくなったのではないかと思う。何かについて芋づる式に調べることが好きな私のような人間からすれば、自分が知りたいことに一番関係がある本やウェブページだけで満足しろというのがそもそも無理な話で、たいていの場合は複数の本を読んだり、検索して出てきたウェブページを複数見ることになる。そういう場合はWikipediaの発想で構成されたものの方が助かる。そもそもひとつのページの中で自分の知りたい情報が全て網羅されているとどうして想定できるのか。そういう場合もときにはあるだろうが、そういう場合だけを前提としてシステムが構築されているとすれば、それは困る。 

 思うにこれはずっと本を読み続けていることと深い関係があって、何かについて理解するときの基本となるプロセスが、一冊の本がどうやって構成されているかということと同じ様に、多くの要素の適切な配置を実現させるという方針で進むことになる。

検索への欲望と検索についての他者の欲望

 最近ようやく内定をもらい、9月からは働き始めることになりそうだ。ここ2ヶ月ほどの就活では、ウェブ上の情報を有効利用する方法について、自分の持つ構想を語ることが何度もあった。それに対して相手が「検索する前にコンピュータが予測して結果をVRで確認できたらいいよね」と返答した場合が複数回あって、エリック・シュミットと発想が同じだと感じた。おそらくはGoogle的なものと接し続けているうちに、ユーザーもどんどんエリック・シュミットと似たような発想をするように変化してきたということなのではないか。逆にいえば、Googleを使わない人間はそういう影響を受けにくく、これから現れる全く別の検索エンジンを抵抗なく受け入れやすいかもしれない。そういう発想が「アメリカ的」とか「シリコンバレー的」とか「技術決定論的」とかいろいろ呼ぶことができるだろうが、そういうラベリングのどれが適当かということとは別に、特定の発想にいつのまにか影響されているのではないかということの方が気になる。

 2015年の11月4日、ルネ・ジラールが亡くなった。人間は対象自体を欲望することはできず、他者の欲望を欲望することしかできないのではないかと彼は考えた。もしかしたら検索に関する我々の多くの欲望は、検索自体よりもむしろ特定の誰かの欲望に感染してそれを欲望しているにすぎないのかもしれない。

*1:もっともキュレーションメディアによるキュレーションというのは、実態としては著作権や肖像権の侵害を辞さない素人集団による編集者不在の不法行為と言ってしまった方が妥当かもしれない。もちろんこの定義が「キュレーション」という言葉の本来の意味とまったく異なる意味であることはいうまでもない。美術館のキュレーターの方たちはキュレーションメディアの炎上についてどう思っているのだろうかと思ったりもする。