いかにも怪しい人について

刑事ドラマのよくある演出

 刑事物はもう何十年も続いているドラマのジャンルで、3ヶ月ごとにドラマが変わっても1つか2つ刑事物が含まれている場合が多い。「はぐれ刑事純情派」から「相棒」や「SPEC」まで、一口に刑事物といっても色々あるが、共通しているところもある。いかにも怪しい人物が実は犯人ではなかったというパターンである。これは刑事ドラマでは長い間使われ続けている演出の典型であるから、世代や地域を問わず色々な人がこのパターンを目にしているはずであるのに、なぜか世間では「いかにも怪しい」というだけの理由で、端的に言えば偏見で誰かを非難する例が今でも後を経たない。いったいこれはどうしたことなのだろう。

 もちろん「いかにも怪しい人が犯人ではない」というパターンは、「偏見はよくない」といった啓蒙的な意図よりはむしろ、予想外の展開の面白さを意図したものだろうと思われるが、そこに読み取るべき教訓があると考えることと矛盾しない。なんとももったいないことだ。

先日のGoogle社員解雇の件との関係

 先日Googleを解雇されたジェームズ・ダモア氏についての記事を書いた。

plousia-philodoxee.hatenablog.com

  アメリカだけでなく日本でも、偏見は社会的問題であり続けている。誤解のないように書いておくと、この問題のポイントはダモア氏の偏見(より正確に言えば、性差に関する根拠を示さない断定的な主張)よりもむしろ、「ダモア氏の主張をどう理解するか」ということに関する人々の側の偏見の方にあると私は感じた。もちろんダモア氏の文書に対する偏見のような捉え方が人々の間に広がった背景には、彼の文書のごく一部だけを切り取ってセンセーショナルに報じるメディアの偏向が少なからず寄与している。日本におけるこの問題の捉えられ方についていえば、上の記事でも指摘したように、ダモア氏の文書が英語であり、しかも10ページ10000字を超える分量であったことが、原文が参照されることを遠ざけた要因のひとつだろう。一般人はともかく、海外の問題を報じるメディアにおいても言語の壁は未だに存在する。

 しかしその一方で、アメリカ国内での事件のその後の推移を見ていると、男女を問わず非難の声が相次いだり、日本における報道と同じように一部だけを切り取って報じられており、当のアメリカでも文書を全て読んだ人は少ないのではないかと思われるような極端な反応が多い。これに加えて事件の前からすでに進行していたアメリカ国内の思想的ないし政治的な分断も手伝って、事態は一層複雑化している。この意味では言語の壁は一因ではあっても「主因」とまでは言えない。

 相手の主張が長い場合に、それにちゃんと付き合って最後まで聞き、その意味をよく考えた上で反応するということは対話の基本であり、相互理解に欠かせない態度であるが、どこの国でもこうしたことが形骸化していることが、偏見が偏見のまま拡大する原因ではないだろうか。日本に限らずアメリカでもまた、ダモア氏の文書を全て丁寧に読むということを多くの人がしていれば、それ以前から存在した分断と結びついて炎が一層燃え広がるようなこともなかったのではないか。

 少し話の筋が逸れたが、刑事物のドラマの典型を何度も繰り返し見続けていても、人は偏見によって相手を判断してしまう。冒頭の疑問に戻れば、刑事物のドラマというのは見ていてそれなりに頭を使うのではないかと思われるのに、「いかにも怪しい人が犯人でない」というパターンが未だに使い回され続けているのは、それに騙される人間が多いということを反映しているのかもしれない。つまり多少は頭を使っているとしても、いかにも怪しいというだけで特定の人物を犯人ではないかと考える過ちを犯さないほど十分に考え抜くことはできていない。 

演繹と帰納

 刑事ドラマの演出やGoogleの社員解雇の件から話が大きく逸れるように思われるかもしれないが、ここで偏見やバイアスについてどう考えるかという私の基本的な立場を示しておこうと思う。私の原理原則といってもよいかもしれない。単純化して言えば、特定の抽象的な原理原則を基に具体的な事柄を説明しようとする演繹的思考は偏見を生みやすい一方で、何が正しいのかをケースバイケースで判断し、その蓄積を通して一般的な原理原則を見つけ出す帰納的推論は偏見を生みにくい。

 ここで厄介なのは、そもそもどんな人間も、何かしらの原理原則を前提にしなければものを考えることはできないということである。たとえば私自身、先に対話や相互理解についての基本的な態度を示したが、これは私が偏見の問題について考える際の原理原則であるといえる。

 Googleがダモア氏を解雇したことについて、株価への影響などの経済的な側面を取り出して分析したり、あるいはこの件以降にソーシャルメディア上の人々のツイートの中にどういう単語が使われることが増えたのか分析するなど、この立場とは無関係に問題を考えることもできなくはないが、最終的には「では私たちはどうすべきか」という問題に至るとすれば、私は上の原理原則に則ることになる。その意味では「偏見に陥らないために常に帰納的に考えるべきだ」というほど問題は単純ではないし、いささか言葉遊びのようではあるが「常に帰納的に考えるべき」という考え方自体がすでに一つの原理原則をなしているともいえる。演繹と帰納は「あれかこれか」という択一の問題でなく、複合的に用いられるものであって、どちらが欠けても不完全である。

 話が抽象的になったのでこれを刑事ドラマに即して言い直せば、一見怪しそうに見える人物がいても、その人を怪しいと考える根拠は何か、そこに憶測が混じってはいないか注意しながら考えるだけでも、我々は偏見から距離をとることができるといえる。刑事ドラマを見ているだけでも得られるこうした教訓が社会にもっと浸透すれば、それだけでもこうした価値観をめぐる問題の推移はずいぶん違ってくるのではないかと思う。