『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んで

 先日、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読み直した。今回が二度目だった。初めて読んだのは単行本が出版されてすぐの頃だったので、もう二年以上前になる。改めて読んでみて、これまでに読んだ他の作品も含めて一般的に言えることについて、作品の中身には立ち入らず、Amazonのレビューの特徴と関連させながら書いてみようと思う。だからこの投稿では、この作品を単体でどう読むかということや、作品の中のこの箇所はどういうことを表現しようとしているのかというようなことに対する考察などを期待しても、何も出てこないかもしれない*1

 この作品について、Amazonでのレビューの数は800を超えているが、その中に「これは」と思うものはほとんどなく、伏線が回収されていないということを指摘するものが少なくなかった。この種の指摘が多い理由は、推理小説ライトノベル*2が売れている理由とも通じることで、作品の中に明快な答えが示されていないと納得しない読者が多いということなのではないかと私は考えている。あるいは推理小説ライトノベルに限らず、ドラマの中でサスペンスというジャンルが一定の視聴率を保って今も残り続けていることとも通じるかもしれない。それが作品に関する個人の好みの問題なのか、読解力の問題なのか、あるいは人々の間で共有された小説の定義の問題なのかと言われれば、私は定義の問題ではないかと思っている。わかりやすく書かれていること、誰が読んでも気付くように書かれていること、それが小説を小説たらしめる、と。

 またこれとは別のタイプの指摘として、過去の作品で使われた主題や表現、あるいは小物を使い回しているという指摘もいくつか目にした。私は村上春樹の作品をすべて読んだわけではないから、使い回されているものを全て特定することができているかはわからないが、確かに使い回されているなと感じることはある。けれどもこれについても、使い回されているからよくないとは思わない。以前に比べて今回の方がよく書けているならそれで一向に構わないし、たとえ以前と全く同じ形で使っているとしても、作品の他の箇所との関係性がうまく書かれているなら、こういうつながり方もあるのかという発見が得られるので、それはそれで一向に構わない。

 一つ目の指摘の方に話を戻そう。読んでスッキリすることを求める人は村上春樹の作品になじめないということは、ある意味では理解できる*3。この作品に限らず、彼の作品は一般に読者が作品を読んだ後に自分の頭で考えることを強く要求するものばかりで、自分の頭でなにかを考えることを望まない人間の方が多いと私には思えるからだ。自分の頭で考えさせるというところが彼の作品に一貫する本質であるとしたら、個々の作品に登場する音楽やバー、主人公が作る料理や女性との会話がおしゃれすぎるとか、複数の女性と簡単にセックスできるのは不自然といった、彼の作品の特徴としてしばしば指摘されることがらは、作品の本質とはほとんど関係ないと思う。そういう要素が現実味を欠いているという指摘も多いが、私にとってはそれほど現実味を欠いているとも思われない。そういうことに関する私の趣味が、彼の作品における主人公の趣味と似ているわけでもないのに、依然として私はそこにリアリティを感じる。

 小説において、作品の前半で張られたいくつかの伏線が、後半からラストにかけて次第に回収されていくという構成は、確かに読んでいて面白みを感じるパターンであるとは思う。また、それまでの全ての展開を最後の一行でガラッとひっくり返したり、そこで始めて真実が明らかになるというタイプの構成も、面白いと思わなくはない。、全ての伏線を最後の一行で一気に回収するという意味で、これも伏線回収のひとつの極端なパターンである。このパターンは私の知る限りでは乾くるみの『イニシエーションラブ』がオリジナルで、それ以降に模倣が相次いだように見えるし、今もそれは続いている。このパターンで書かれる作品はけっこう人気も出やすく、今後もしばらくは後を絶たないかもしれない。もっともこのパターンについては、私はもうすでに飽き始めている。人間が何かを理解する場合、そのプロセスは決して段階的なものではなく、突如として全てを一気に理解するというところがある。雷に打たれたようにとか、ユリイカという叫びとか、散歩をしていてふと思いついたとか、突然天から降ってきたというように、理解についてのこうしたプロセスを表す言い回しはいくつもある。その意味では、ラストの一行で急に全てが明らかになるというのは、人間が何かを理解するということを表現するためのうまい方法であると理解することもできなくはない。けれどもやはり、そういう理解のしかたは、この手法については当てはまらないように思う。

 小説の構成は、このように伏線とその回収というパターンだけである必要はない。もっと色々な構成のしかたがあってよい。比喩の的確さ、印象に残るセリフ、思わず使いたくなるような気の利いた表現もいいが、構成のしかたもまた、小説を読むときの楽しみのひとつである。そして村上春樹の作品は、回収される伏線もあれば、回収されない伏線もある。あるいはそもそもそれらは伏線ですらないのかもしれない。そういうものをどう読むかは読み手次第である。伏線が回収されてないじゃないかと文句をつけるのも自由だが、私はそれを建設的な読みであるとは思わない。

 リアリティの方に話を移す。一般に、人物に対してリアリティを感じなくても作品全体としてはリアリティを感じる作品もあれば、人物にはリアリティを感じるのに作品全体としてはどうもリアリティを感じられない作品もある。私の場合は前者の方が重要だと考えている。それは単に、部分に対するリアリティよりも全体に対するリアリティの方が重要であるということではない。全体としてリアリティを感じるためには、ディティールに対するこだわりが必要だからだ。それはなにも固有名詞を多用しているかどうかということではなくて、細密画のように細かいところを忠実に表現しているかどうかということなのだと思う。

 それでは私は村上春樹の作品に登場する個々の登場人物に対してリアリティを感じていないかというと、すでに述べた通りそういうわけでもない。私が登場人物に対して感じるリアリティは、大多数の人々に当てはまるとか、共感を得やすいとか、料理の上手い下手とか、女性と簡単にセックスできるとか、そういうこととは直接は関係ないことなのだろうと思う。

*1:この作品単体について考えたことは、またいずれ書こうと思う。

*2:ライトノベルの人気がある理由として、キャラが立っているということもしばしば指摘される。わかりやすい人物像の方が、微妙でわかりにくい人物像よりも読んでスッキリするというのは、わからないことではない。ライトノベルではないが、登場人物のキャラが立っている小説は多い。そういう作品は役者が演じやすいということもあってドラマ化もしやすく、ドラマ化によってますます人気を得るというかたちで回路ができあがっていく場合もある。

*3:もっとも、なじめない理由がこれだけとは限らない。村上春樹の作品はどうも好きになれないという人について、どうして好きになれないのかを説明できない場合もある。『ノルウェイの森』を読んでそう思う人が多いということも目にするが、性的な描写が気に入らないということ以外は、未だにはっきりとはわからない。