小説の好みと絵の好み

重松清百田尚樹

 重松清百田尚樹を同列に語れるのかどうかはわからないが、私は以前から、どちらの作家も好きになれない。重松清は毎作毎作感動させようとしてくる感じが露骨で冷めてしまい、百田尚樹イデオロギーむき出しな感じが冷めてしまう。感動自体が特に悪いことだとは思わないし、またイデオロギー*1自体が嫌いというわけでもない。そして、重松清の方は、重松清だから読まないということは別にない。少し前に出た『赤ヘル1975』などは、長いけれども読んでみたい気もしている*2。一方で百田尚樹の方は、率直に言って「百田尚樹が書いた」というだけで私は読む気がしない。もちろん新作が出れば、本の内容を簡単にチェックしてみて面白そうかどうかを確かめる。しかし結局、毎回読む気になれない。例えば『カエルの楽園』は、出てすぐの頃に書店で何ページか立ち読みしたが、偏見だらけで出来の悪い風刺にすぎないという印象しかなかった。わかりやすく書かれた童話仕立ての風刺は世間には広まりやすく残りやすいとすれば、その風刺が誤りである場合、

 …と、これだけでは単なる印象にすぎず、考えているとすら言えないように思うので、小説についての私の好みについて、もう少し踏み込んで考えてみようと思うようになった。それぞれの作家の作品についての論評もいずれ書くつもりでいる。どれだけ考えようと、結局のところそれを抜きにしては、あまり建設的だと思えないためだ。

小説の好みに対する直観

 あるとき私が直観的に感じたのは、私の小説の好みは絵の好みと関係があるのではないかということだった。そこでまずは絵の好みについて書こうと思う。それには自分の過去が手がかりになる。

 私は小さい頃、漫画のキャラクター*3や風景、身近な物*4の模写をするのが好きだった。模写のときには、とにかくそのとき目の前に見えているものを正確に写しとることに集中して鉛筆やシャーペンを動かした。小中学校では筆を使った絵を描くことも何度かあったが、筆の感触になじめず、好きになれなかった。

 時とともに絵を描くことは次第に減っていって、高校へ入った辺りからはもうほとんど絵を描かなくなっていた。漫画は読み続けていたし、印象に残る風景もあったけれども、模写しようという気にはならなくなっていた。模写とは異なるが、迷路を描くこともなくなっていた。高校を卒業し、一年の浪人生活を経て大学へ進むと、私は美術館へ絵を観に行く研究会に入り、フェルメールピカソやモネなど、上野の美術館へ定期的に出かけて行っては、時間をかけて絵を観るということを繰り返した。絵は好きだったけれど、特にそれについて専門的に調べたり、体系的に学ぶことはなく、ときどき気まぐれな関心から高階秀爾の本を読んでみたり、なんとなく美術館へ行く前に関係のありそうなサイトをネットで見てみたりするくらいのもので、「鑑賞する」なんて大したことはできていないと思いながら絵を観続けていた。目の前の絵を観ながら、何か意味ありげに頷いたり、蘊蓄を語ったりするということもなかった。

 ある時、研究会で絵を描く機会があって、私は模写の題材になりそうな絵を探しに図書館へ行った。3階の奥の壁沿いに、美術の本を集めた棚があって、そこから適当に一冊抜き出した本が、水彩画を集めたものだった。絵は絵の具で描くことになっていたので、水彩画から模写する絵を選んでも構わなかった。その本の中でひときわ私の目を引いた絵があって、私はその絵を模写することにした。初めは画家の名前を気にしておらず、とにかくその絵自体に見入っていた。好きな画家を問われて、なんとなくピカソゴッホクリムトなどの有名な画家の名前を口にしていた頃、それらの画家の絵に対しては感じたことのない印象が、その絵にはあった。ルドルフ・フォン・アルトの水彩画だった。19世紀から20世紀初頭まで生きたオーストリアの画家である。

 ルドルフ・フォン・アルトの水彩画は、美術展の企画として日本で紹介されているのを目にしたことは一度もない。美術界の動向を幅広くチェックしているわけでもないので、私が見落としている可能性ももちろんあるが、とにかく全然目にしなかった。ネットで検索しても、作品だけは画像検索でわかるし、ウィキペディアの記事も一応存在している*5ものの、どこかの美術館で展示されているというような情報は皆無だった。いくつかのサイトでは紹介されている*6それほど有名ではないので展示を企画しても採算が取れず、日本には回ってこない絵なのだろうと私は思った。その水彩画はとにかく細密で、細かいところまで忠実に描いている。キュビズムミニマリズム、あるいはフォルマリズムなどと異なり、ただ対象を忠実に写しとるという素朴な描き方が、私には好ましく思われた。そこには不自然なものはどこにもなく、ごく自然に風景や建物や家具などが精密に描かれていて、ときには写真のように見える絵すらあった。小さい頃に私が描こうとしていた絵はこういう絵なのだ、と私は思った。それは描く者が描きたいように描く絵ではなくて、見たままを描く絵だった*7。画集やネットで彼の描いた絵を何枚も見ているうちに、私の絵の好みはこういう素朴なものなのかもしれないと思うようになった。「ゴッホを知らずに絵を語ることはできない」とか「バルビゾン派のトロワイヨンが…」というような、雰囲気や美術評論家の評価などとは何の関係もなく、自分は絵についてどう思うのかということが、そのとき初めて鮮明になったように感じられた。それはやや大げさに言えば、自分がどういう人間なのかということが少し見えた瞬間だったとも言える。

 そして、私の絵に対する好みはその頃から今に至るまで変わっていない。24で大学を卒業してからおよそ4年が過ぎたが、私はその間、美術館へは片手で足りるくらいの回数しか行っていない。もう少し足を運んでいたら、絵の好みは変わったかもしれないが、今のところ私の好みは、ルドルフ・フォン・アルトの描く水彩画のような絵だと定まっている。ターナーシャガール伊藤若冲など、彼の他にも何人か好きな画家や作品はあるが、それらは大抵、絵自体の印象というよりも「この絵を見たときこんなことがあったな」とか「この絵を見た頃の自分の精神状態はこういう感じだったな…」というような、その絵にまつわる私の個人的な思い出と結びついて作品を捉えているところが大きいように思える。単なるナルシストということなのかもしれない。

絵の好みから小説の好みへ

 描く者が描きたいように描く絵ではなく、見たままを描く絵というのは、小説の場合、書く者が書きたいように書く小説ではなく、見たままを書く小説ということになるだろう。とにかく感動させるものを書いてやろうと思って書いた小説や、世界はこうあるべきだというドグマに基づいて書かれた小説は、書く対象をそのまま表現した小説とは異なる。重松清百田尚樹に限らず、リアリティの追求を捨ててただ書きたいように書かれているだけだと感じる小説は、どうしても読む気になれない。ただ書きたいように書かれているというのは、別の言い方をすると自分の鬱憤を垂れ流す方法として小説というスタイルを選んでいるだけとも言えるかもしれない。私にとって百田尚樹の作品は、そういうもののように感じられてならない。

自戒

 そうは言っても、私の偏見や思い違い、あるいは読みが浅いということもあるかもしれない。作品の解釈や評価について、私はフェアじゃないのではないかという罪悪感のような気分と、それに対する償いや責任感みたいな気分から、読む気が起こらない作品をあえて読むこともある。単に娯楽で読むだけならそんなことをする必要はないのだから、私にとって小説を読むということは、単なる娯楽以上の何かであるということなのだと思う。

 気が進まない作品を読む場合、最低でも50ページは読もうとか、一旦全部読んでから判断しようなどといったルールを前もって決めて読むことにしている。それでもやはり、読み進めるとともに次第に苦痛になってきて、ページをめくる手がどんどん重くなったり、ページ数を気にしたりするようになる。そして大抵は途中で読むのをやめてしまう。*8客観的に見れば、私の手は重くなったりしないし、ページ数が印字された位置も、同じ出版社の他の本と変わらない。各ページの右下と左下、右上と左上、あるいはページ下の中央などだ。位置によって目に入りやすいかどうかが違うわけでもない。けれども何かを経験するというときには、どうしてもそこに自分が関わってくるから、手の重さやページ数が目に飛び込んできやすいかどうかというようなことが、小説の内容に連動して、自分の中で変わってくる。読むことを客観的に定義することが難しい理由がここにあると言えるかもしれない。

鉄板に対する公平さ

 がんで余命一年とか、限られた期間しか主人公の記憶が続かないというような設定の作品、あるいはライトノベルのように、キャラが立っている作品など、要するに「こういうのがわかりやすくて当たりやすいんだろうな」と感じさせられる作品も、私はいまいち読む気になれない。感動させようとか笑わせようという魂胆なり計算が見え見えで、どうも下品に思えてしまうのだ。それは現実にがんで余命一年の人間を描いているわけでも、現実に記憶喪失であったり健忘症であったりする人間を描いているわけでも、あるいは現実にキャラが立っている人間をちゃんと捉えていないのではないかと思ってしまう。もしも現実のそれらと比べても遜色のないレベルのリアリティを感じさせるものであったなら、私はその作品を高く評価するだろう。もちろんその場合には、その著者が重松清百田尚樹かどうかなどは関係ない。フェアであるとはそういうことだ。

 もちろんある設定なり作風の模倣、平たく言えば「パクリ」が次々に出てくるということは、そこに人々の心を動かす何かが確かにあるというのも一理あるかもしれない。そのパクリの源流を辿れば、オリジナルと呼べるような特定の作品へ行き着くこともあるだろうし、そういう作品に対してはいい仕事をしているなと思う。しかし同時に、売れているからといって価値があるはずだと考えるようになってしまっては、ある意味評価の棚上げであって、自分の頭で考えたことにはならない。あるいは控えめにいって、その考え方では実際に売れるまでは判断が下せないから、予測力がない。

直観からの乖離

 風景を見たまま描くということと、見たままのことを小説で書くということのあいだには、違いもある。作家が風景の模写と同じ意味で「見たまま」を言葉で書いたとしたら、それはもはやフィクションではなく、ノンフィクションである。それは、小説におけるリアリティとノンフィクションの作品におけるリアリティとの違いでもある。私がある時期からノンフィクションに偏って本を読むようになったのは、あるいはそういう区別が根拠になっているのかもしれない。つまり、ルドルフ・フォン・アルトが見たままを水彩画で忠実に描いて見せたようなものを求める意識から、私は自然とノンフィクションに惹かれていったのかもしれない。

 しかしその一方で、フィクションであってもそこに現実感を感じるということは確かにあって、これは現実には起こり得ないと感じることであっても、そこにある種のリアリティを感じることはある。「フィクションがフィクションとして優れているとはそういうことだ」という立場で作品を評価する人間も少なからずいる。私自身も、もしかしたらそういう立場なのかもしれない。

外れた直観とその先

 このように、絵の好みについて過去を振り返りながら考えてみると、それは小説の好みというよりもむしろ、ノンフィクションに対する関心と関係しているように思われてきた。初めのうち、私は直観的に、絵の好みが小説の好みと関係しているのではないかと思ったのだが、どうやら少し違っているらしい。いつも直観通りの結果とは限らない。

 小説や絵の好みに限らず、一般に何かについて、「おそらくこういうことではないか」という何らかの直観が先にあるとしても、それについて後から筋道を立てて考えて検討しなければ、その直観が正しかったのかはわからない。直観が誤りであることもある。直観に反するが正しいことがら、あるいは私にとってなじみのある言葉でいえばcounter-intuitiveなことがらについて、私がある程度用心しながら考えるようになったのは、大学の頃、国際金融の授業がそういうことを意識して構成されていたこと*9、その後に物理を勉強し直したこと*10のふたつが少なからず影響しているのだと思う。

 さて話の筋を戻すと、はじめに抱いた直観が当たっていなかったとして、それでは私の小説の好みについては結局どう考えればいいのか。絵の次に思い浮かんだのは迷路だった。けれども、迷路と小説の好みを共通の言葉で説明することはできそうにないように思えた。迷路を作るとき、それは常にフィクションである。けれども、作り物であるにも関わらず、そこにわざとらしさや不自然な感じ、あるいは押し付けがましさなどは感じない。その意味では小説の好みと似ていなくもない。けれども迷路の好みについて深く考えるだけで、小説の好みがどんなものかを十分に理解できるという気もしない。それならばむしろ、絵の好みについて考えた方がいいようにも思える。小説の好みについてどう考えればいいのかということについて、以前よりいくらかは理解が進んだとは思うけれども、依然として十分に理解できたとは思えない。考えること自体に意味があるという趣向を持つと、恋に恋するのと同様の過ちを犯す。トートロジーに対しては、慎重でなければならない。けれども、結論はまだ出ないようである。

*1:そもそもイデオロギーそれ自体をどのように考えればいいのかということを考えたこともある。その頃に私が見つけたのがテリー・イーグルトンの『イデオロギーとは何か』とスラヴォイ・ジジェクの『イデオロギーの崇高な対象』だった。どちらの本もまだ読んでいない。今の私にはまだ、これらの本がイデオロギーについて考えるときの手がかりになるはずだという直観があるだけだ。

*2:ざっと紹介をみた限りでは、少年の成長の過程と広島カープの優勝へ至る過程を重ねて書く構成であるらしく、その重なり具合の中に彼の好む感動が描かれているのだろうと私は感じた。

*3:絵のうまい友達の中には、自分の頭の中のイメージをもとに、想像上のキャラクターを作ってそれを描くのがうまい友達がいたが、自分はそのタイプではなかった。ときどき自分でお粗末な絵の漫画を描いたりしたこともあったが、その漫画のキャラクターや背景の絵は適当なもので、よりうまく描こうとか、よりリアリティーのある画風に…というようなことは考えなかった。

*4:とりわけMONOの消しゴムは、描くのに時間がかからないのでよく描いた。

*5:日本語版の記事は残念ながらまだない。このことも日本における彼の知名度を物語っている。英語版ならばあるが、オーストリアの画家ということで、やはりドイツ語版の記事がもっとも充実している。

英語版:Rudolf von Alt - Wikipedia

ドイツ語版:Rudolf von Alt – Wikipedia

*6:たとえば下のサイトでは、サイトの管理主さんによる紹介と、そこに書き込まれたコメントを読むことで、日本語でも彼のことが多少わかる。

kenwan56.exblog.jp

*7:とはいえ、この「見たまま」というのが厄介で、先ほど挙げたキュビズムミニマリズム、フォルマリズムなどのいくつかの「イズム」は、見るということに対する解釈の違いから生まれているともいえる。この点についても、いずれ一つの独立した記事を書かなければならないだろう。

*8:最近であれば、『本にだって雄と雌があります』を途中で放り出した。これは気が進まない本でなく、むしろ読みたいと思って買った作品だっただけに、残念であった。

*9:その授業では、世間ではこういう風に言われているということを「Myth」として紹介し、実はそれは学問的に検討すれば誤りであるということを一つ一つ示していくというスタイルをとっていた。counter-intuitiveという言葉はそれから後になって別のことがきっかけで知り、ああ国際金融の授業のひとつのポイントはこれだという言い方もできるのかと思った。

*10:高校時代、文系だったこととゆとり世代だったことが原因で、私は物理を学ばなかった。もともと中学の時点で理科に対してほとんど興味が持てなかったということもあって、私は物理をきちんと学んだことがなかったのだが、大学で数理経済学を学ぶうちに、物理に対する関心が強まってきて、塾で高校生を教える機会があったのをきっかけにして、物理を独学で学んでみた。学んでみると以前に比べて格段に面白いと感じるようになっていた。経済学の言葉で言えば、選好 (preference) は短期では変化しないが、ある程度の期間を経ると変化することもあるということを身を以て感じた経験だった。