コンコルドの誤謬の抽象化

 

尾崎豊のとある曲の中の表現から

 尾崎豊の曲に「Scrambling Rock’n Roll」というのがある。その歌詞の中に「入り口はあっても出口はないのさ」という表現があるのだが、これは「コンコルドの誤謬」の概念を抽象化したような表現のように、私には思えた。いや、もう少し正確な書き方にこだわると、コンコルドの誤謬の概念を抽象化するのに、この表現はいいインスピレーションを与えてくれた。どういうことか、少し書いてみたい。

3通りの抽象化

 あらかじめ結論を述べると、コンコルドの誤謬について、以下の3通りの表現を示した。特にこの記事の趣旨に最も関係するのは β のパターンである。

 α : π(continue) < π(exit) ⇄ P(continue) > P(exit)

 β : O{n(option[x]) }= 2 ⇄ S{n(option[x])} = 1

 β' : iA{n(option[x]) }= j ⇄ iB{n(option[x])} = k (ただし j > k とする)

それぞれの記号がどういう意味で用いられたものであるかは、以下の本文を参照されたい。

コンコルドの誤謬とは

  「コンコルドの誤謬」(Concorde fallacy) というのは、「これまでこの方法でやってきたのだから、今更変更するのはもったいない」という、サンクコスト*1の評価に関する心理的なバイアスを指す行動経済学の用語である。もともとは音速で空を飛べるコンコルドの開発に関して、採算が取れないにも関わらず、既に注ぎ込まれた費用が莫大であったために、製造を中止して事業を撤退する決断を下すのに時間がかかったという逸話(事例)をもとに作られた言葉である。

形式的な表現

 コンコルドの誤謬は、記号を使って次のようにかなり単純に表現することができる。

π(continue) < π(exit) ⇄ P(continue) > P(exit)*2

π: profit,  π(X)=Benefit(X)-Cost(X), X=continue, exit

⇄:「にもかかわらず」を表す記号

P(X): Xとなる確率

コンコルドの誤謬の抽象化

 コンコルドの誤謬は、迷路になぞらえて言い換えれば、ある方法を採用した当初(入り口)に戻ることを拒否して、別の出口(ゴール)を探そうとするバイアスとも言える。どんな迷路も入り口からは出られるのに、それは拒否してゴールから出ようと意地を張ってしまう。ゴールというのは「理想的な解決策」であったり、それこそコンコルドに引っ掛けて言うなら「よりよい着地点」ともいえる。本当はスタート地点に戻るのが妥当であるのに、そのことをなかなか認めることができずに、きっとどこかにゴールがあるはずだと意地を張ってしまう状態とも言える。

迷路についてのイメージを媒介とした抽象化

 抽象化にあたって、迷路について私が抱くイメージが役に立った。コンコルドの誤謬の概念を抽象化するにあたって、なぜ「迷路」ということが関係するのか。これまでにいくつかの記事で、迷路(について私が抱くある種のイメージ)が、私がものを考えるときの核になっている場合があることを示してきた。それを振り返ることで、抽象化の内実がいくらか見えやすくなる。とはいえその全てを振り返ることは避け、ここではそのうち、「迷路との壁と道を選ぶ人間」を取り上げ、他の記事*3は簡単なコメントをつけて脚注へ回した。もし気になったら個々の記事を読んでいただければと思う。

過去の記事を用いた説明

 「迷路との壁と道を選ぶ人間」では、人間の選択を外から左右する要因と、それに対して自分の道を主体的に選ぼうとする人間の関係について書いた。そこでは、あくまでもゴールへ向かって進むことを前提としていたけれども、コンコルドの誤謬を抽象化した概念*4をここに当てはめると、迷路の中にいる人間には「ゴールへ向かって進む」だけではなく、「スタート地点へ戻る」ということも合理的な選択の一つとして加わることになる。それはある意味では「初心を忘れるな」ということでもあるかもしれない*5。このことをいささか教訓めいた言い方でまとめるとすれば、「迷路を進むとき、ゴールだけがゴールとは限らない」というところだろうか。進むということを意識すると、どうしても未来の方へ意識が行きがちで、スタート地点に戻るというのが過去へ戻ることのように感じられ、ためらいがちになるかもしれないが、過去へ戻るということが正しい選択である場合もあるのだ。きちんと考えたならば、ためらわずに入り口へ戻ればよい。

plousia-philodoxee.hatenablog.com

抽象化の過程

 一般に何かを抽象化するときには、その対象のうち本質的な部分のみを取り出し、本質とは関係のない他の部分は思い切って捨てる。この「捨てる」ことの方を「捨象」と呼ぶ。ではコンコルドの誤謬の概念を抽象化するというときに、私は何を捨象したのかといえば、それは計測可能なコストの概念である*6コンコルドの誤謬では、あることがらを続行するか否かを判断するのに、続行した場合のコストとベネフィットの差(つまりプロフィット)、そして続行しない場合のプロフィットを比べて、よりプロフィットの多い方を選ぶ場合に、本来であればプロフィットの多い方が選ばれるのが合理的であるはずなのに、実際にはそうならないということが問題になる*7。そこでコストの概念が出てくるわけだが、コストを意識しなくても、人間は初めから特定の選択肢が見えなくなっている場合がある*8コンコルドの誤謬の場合もそうで、意識されなくても同じ結果になるのであれば、思い切って捨象してもいいのではないかと私は考えたわけである。その結果が、上述の教訓めいた表現として結実したということになる。

形式的な表現

 これについても、記号を用いた簡潔な表現を与えておくことにする。

O{n(option[x]) }= 2 ⇄ S{n(option[x])} = 1 *9

i{n(option[x])}: xについて、ある特定の個人の視点i ( i = O, S ; O: Objective, S: Subjective)から捉えられた選択肢(option)の数

⇄:「にも関わらず」を表す記号

抽象化を重ねる

 さて、記号を用いた表現を与えることもできたので、記事のタイトルにもあるようにコンコルドの誤謬の概念を無事に抽象化できてめでたしめでたし…とここで終わりにしてもいいのだが、この抽象化はもう一段抽象化が可能なので、それを示すと次のようになる。

iA{n(option[x]) }= j ⇄ iB{n(option[x])} = k (ただし j > k とする)

 特定の人物にとっての客観的な選択肢の数と主観的な選択肢の数を比べていた先ほどとは異なり、今回は iAとiBは別人物であっても構わない。また選択肢の数も一つや二つではなくもっと多くても構わない。要するに一方の人物にとっての選択肢の数が、他方の人物にとっての選択肢の数よりも多くなるということであって、これは取引なり交渉なりにおける「情報の非対称性」についてのある種の形式的な表現といっても差し支えないかもしれない。コンコルドの誤謬について、迷路に対して私が持っているイメージを媒介としてそれに形式的な表現を与えて抽象化を行ってみた結果、思わぬ形で「情報の非対称性」という別の概念とのつながりが示されたのは、私にとってちょっとした驚きであった*10。ある概念を変形していくと、いつのまにか別の概念と通じているというのは、トポロジーにおけるドーナツとコーヒーカップ、あるいはトポロジーに限らずより一般にいえば、同値な変形ということを思わせなくもない。

経験から得られたことを整理するということについて

 経済学を学んだ経験と、行動経済学に関する本を読んだ経験と、小・中学生の頃に迷路を書いていた経験、中学生の頃からずっと尾崎豊の曲を色々と聴き続けてきた経験など、これまでの私の経験のいくつかが、少しは整理されたように思う。全くもって個人的な、単なる自己満足に過ぎないではないかという誹りを免れないかもしれないが、経験を通して記憶に残っていることがらを整理していくことは、自分のものの考え方の原理なり核なりを点検する営みとして、少なからぬ満足感を覚えた。最近、ショウペンハウエルの『読書について』と『知性について』の中に収められたいくつかのエッセイを読んだ影響もある。ただ蓄えるだけではなく、それを整理しなければ使い物にはならない。最後に少し引用する。

 数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識のばあいも事情はまったく同様である。いかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。

(ショウペンハウエル『読書について』(岩波文庫)思索 p.5より)

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

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CODE VERSION2.0

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CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー

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*1:英語では「sunk cost」。「埋没コスト」とも呼ばれる。すでに負担してしまった費用のことを指す。取り返しはつかないのだから、すでに払ってしまった費用について考えてもしょうがないというのが理性的な判断なのだが、人間は「これまでにこんなに払ってきたのに…」と気にしてしまうバイアスを抱えているらしい。

*2:ここではコンコルドの誤謬の元の逸話に忠実に、「続行」(continue)と「撤退」(exit) を用いたが、この定式化を抽象化して、 π(A) < π(B) ⇄ P(A) > P(B) とすると、本質を損ねずに概念の汎用性を高めることができる。なおこの抽象化は、本文で論じる抽象化とは異なるので注意が必要である。

*3:古いものから順に取り上げる。

[1]「よい面を活かすことのむつかしさ」では、人間の創造性と科学に基づく予測について、特定の経路を選択することがどの程度妥当なことなのかということを扱った。この記事の中でも「迷路との壁と道を選ぶ人間」が登場する。

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[2] 「興味がないものは、視界に入っていてもちゃんと見えてはいない」では、自分と相手が同じ単語を使っていても、それについて同じように認識しているとは限らないということについて書いた。その言葉の例のひとつとして、「迷路」という言葉を挙げた。いくつかの記事でこの言葉を使ってきたので、その一つないしいくつかを読まれた方であれば、私にとって「迷路」という言葉がどのような意味を持つものであるかということが、多少はわかってもらえるかもしれない。もっとも、私自身、この言葉について十分に理解しているとは限らないし、またそれを適切な表現で伝えることができている保証もない。

 当たり前といえば当たり前のことであるが、むしろ当たり前であるがゆえに、現実のコミュニケーションにおいてはしばしば忘れられがちであって、その結果生まれる自他の間の齟齬の原因がこの「当たり前」のことであることに気付けなかったりするものだ。 

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[3] 「文体という建築、或いは文体という迷路」では、私にとっての迷路のイメージについて、一つの段落を割いて書いている。私にとって迷路という言葉がどういう意味を持つのかということをつかむのには、とりあえずこの記事だけでも読んでみるというのが一番手っ取り早い方法と言えるかもしれない。

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[4] 「分裂する他者」では、文章全体に渡って「迷路」という言葉が使われている。記事自体の主題は、私にとって迷路を描くことが他者を理解するための一つの方法だったということである。「ユーザーベース」や「ユーザーファースト」という言葉があるが、私の場合は迷路を作る経験が、ユーザーについて考える経験になっていたとも言えるかもしれない。 

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[5] 「みかん」では、これまでに作ったことのないものを作るということの、私にとっての身近な例として迷路を挙げた。記事自体の大まかな内容は、「みかん」をどう説明すればいいかということを通じて、実体論と関係論のどちらも私には信用ならず、当時私の中でブームだったネットワーク科学もまた、みかんを説明するのにそれほど役には立たないということだ。そしてみかんをちゃんと説明できるようになれば、これまでの私の人生においてそれなりに意味を持っていると考える迷路についても、ちゃんと説明できるようになるのではないか、さらにそこから、自分とはどういう人間であるかということを考える糸口がつかめるのではないかといういささかの希望も、そこには込められている。

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*4:注意深い読者は、コンコルドの誤謬を抽象化した概念なるものについて、私はまだ一切の定義を明らかにしていないことに気付かれたかもしれない。もちろん定義を与えないで文章を締めくくるのは論外なので、後にいささか教訓めいた表現によって、定義を与える。しばし未定義のまま読み進めて頂きたい。

*5:「ある意味では」や「かもしれない」などと断定を避けた書き方をしたのは、「初心を忘れるな」と言う言葉を世間で用いられている意味で使うとすれば、ということで、この言葉の本来の意味は別のものであるからだ。初心に帰るというのは、何かを始めた頃の自分を思い出すということではなく、自分にもまだ不慣れな初心者の頃があったのだということを思い出すという意味である。例えば下の2つのサイトのページなどで詳しく解説されている。この言葉は世阿弥の「花鏡」の結びの一部「初心忘るべからず」がルーツであるらしい。

(1) http://blog.share-wis.com/?p=425

(2) http://www.geocities.jp/michio_nozawa/03episode/episode38.html

*6:この点が先に記号を用いて行った抽象化とは異なる点である。二つの抽象化が出てきてこのままでは紛らわしいので、ここでは仮に、コストの概念を捨象した抽象化の方を「抽象化β」、記号を用いた方の抽象化を「抽象化α」と呼ぶことにする。すでに示した π(continue) < π(exit) という形の定式化では、抽象化した後にも「π」の記号が残っており、πの定義上、コストの概念は必ず含まれるので、コストの概念は捨象されていないといえる。それでは抽象化αの方では何が捨象されたのか(言い換えれば何に目をつむったのか)といえば、continueやexitといった個々の行動の内容である。このように、一口に「抽象化」といってもその結果は一通りでなく、何を捨象するかによって抽象化の結果は異なるのである。

*7:この点は既に記号を用いた定式化の箇所でも触れた。

*8:特定の選択肢が初めから見えなくなってしまっているというのは、オプトインとオプトアウトについての議論と関連する論点を含む。キャス・サンスティーンの邦訳最新作である『選択しないという選択』では、ネットの利用において、何もしなければデフォルトでは選択したことになっていて、もしも選択しないならばわざわざ自分でチェックボックスからチェックを外さなければならなくなっている「オプトアウト」の仕様と、自分から選択ボックスにチェックを入れなければ選択したことにはならない「オプトイン」の仕様の二つを取り上げ、近年では意図的にオプトアウトが多用されていることの危険性を指摘している。この論点は既にいくつかの記事で私も目にしたことがある。いや、むしろこういう論点なり問題意識なりが以前(おそらく盛り上がりを見せるようになったのは数年前)からあって、それをある程度体系的な形でまとめたものがサンスティーンの同作であったという順序であろう。ここではGIGAZINEの次の記事を挙げておく。

gigazine.net

 あるサービスについての特定の仕様が、知らず識らずのうちに私たちユーザーの行動を方向付けたり、時にはそのうちの一つに決定しさえする現実への危険性という意味では、『CODE』においてローレンス・レッシグが人の行動を制約する要因として法 (law)、規範 (norm)、市場 (market) に加えて4番目の要素として指摘した「アーキテクチャ」(architecture)の概念を巡る議論とも接続する内容である。

*9:こちらは少しわかりづらいのでコメントをつけておくと、客観的には選択肢の数が二つあるにも関わらず、主観的には選択肢の数が一つしかないということを表す。

*10:もっとも、コンコルドの誤謬と情報の非対称性の二つの概念が、ある種の形式的な表現においてはお互いに通じているということについては、もう少し丁寧な検討を要するという気もしている。これについても、いずれ整理された形で示すことができればと思っている。