何のせいだと考えやすいか

 

 自分自身のことについてうまくいかないとき、その原因を考える。そのとき、自分にはどうにもできない要因(以下「要因A」とする)と、自分にはどうにかできる要因(以下「要因B」とする)の二つにわけることができる。それでは人は、どちらの種類の要因のせいだと考えやすいのだろう。おそらく人は一般に、自分の能力や権限ではどうにもできないもののせいだと判断しやすい心理的なバイアスがあるのではないかと直観的には思っている。

 おそらくここ2年くらいの間、責任ということに関して、そういうことを考え続けている。2年考え続けている割にはここへきていきなり文章を書いているので、随分まとまった内容になっているのかというと、残念ながらまだ十分にまとまっている感じはしない。けれども、ここで一旦文章にしてみようと思い、書き始めた。

心の中の綱引き

 どんな人にとっても、要因Aのせいにするのは魅力的に思える。何しろ自分の力ではどうしようもないのだから、それに対して自分は何も手を打たなくてよいということになる。それは言い換えれば、問題の責任は自分にはないと考えることでもある。「それでは人は」や「人は一般に」などと書いたこともあり、ここまでの論の流れでは希望がないのではないかと思われるかもしれないが、そういうわけでもない。実際にはどんな個人も、ある問題の原因について考えるとき、自動的あるいは反射的に要因Aを選ぶというわけではなくて、頭の中では要因Aと要因Bのどちらを追求するかというある種の綱引きが起こっているのではないか。そしてその綱引きでは、放っておけば要因Aが勝ちやすいというのが、偽らざる人間の姿ということなのではないかということが、さしあたってここでの仮説である。では要因Bの方が勝つように手を貸せばいいのかというと、ことはそう単純でもない。

 例えばこういう問題を考える。引っ越してからというもの、どうも気分がふさぎがちな日が続いており、どうにもこの状態から抜け出せる気がしない。これは一体何が原因なのだろうか。人と会う回数が減ったから、まともな食事が摂れていないから、会社でうまくいっていないから、恋人がいないから、お金がないから、将来が不安だから、などなど、考えれば次々といかにも当てはまりそうな原因の候補が浮かんでくる。もしかしたらこの中のどれか一つでなく、複数の原因が複合的に作用しているということもあるかもしれない。

 ところがここである本を偶然読む。それは脳科学を扱った一般向けの本で、その中にセロトニンの分泌が活発になる条件について書かれた項目があった。曰く、朝日光を浴びるとセロトニンの分泌が活性化される…。ここで彼は一旦本を読むのをやめ、考え始める。そういえば引っ越してからというもの、自分が朝に日光を浴びなくなったことに思い至る。その原因を考えると、周囲がビルに囲まれており、たとえカーテンを開けていようとも、自分の部屋には朝の時間帯に日光が差し込むことはないのだと知る…。

 この例では、自分にはどうにもできない要因である「家の周囲の環境」が問題の原因であると考えることができる。もちろんそれに対して、お金にゆとりがあるなら日照条件のよい別の家に引っ越すなどの対応を考えることができるかもしれないが、もしもお金にゆとりがないなら、当面は自分にはどうしようもないと思い、諦めるのが得策だろう。だからこの場合には、自分の責任を感じずに済む要因に問題の原因を帰そうとするバイアスの負の影響は問題にならない。そこに心理的なバイアスがはたらいていようとも、正しい原因(家の周囲の環境)を特定できたのであれば、それで問題ないのだ。とすれば本当に考えるべきは、正しい原因が自分に責任のある要因である場合に、心理的なバイアスが原因で、自分には責任のない要因が原因だと判断してしまうことをいかにして防ぐかということになる。先ほどの比喩を使っていえば、綱引きを公平なものにするにはどうすればいいかということでもある。

個人の綱引きと集団の綱引き

 この綱引きは、一人の個人の心の中だけで完結している場合もあれば、複数の人間の間で影響しあうような場合もあるだろう。先ほど取り上げた例の場合は純粋に個人的な綱引きということになるが、では集団の場合というのはどうか。

 今回は女性の設定で例を考えてみる。大学を卒業して数年が経った頃、高校までの友人はすでに何人も結婚し、大学時代の友人の中からも結婚する友人が相次ぐようになった。高校までの友人たちが20や21などの年齢で結婚したときには、「そんなにすぐに結婚してもしょうがない」とか「自分は就職してある程度は働いてから結婚するのが希望だから」などと自分を納得させ、それほど動じることもなかった。大丈夫。今は就職活動に専念するのだ、と。

 しかしその後、就職して5年が経過し、大学時代の友人たちも続々と結婚していくにつれ、少しずつ焦りを感じ始める。以前はちっともリアリティを感じなかったアラサーに突入し、あと少しで30を迎えてしまう。26までに結婚するつもりでいたのに、気付けばもう27…。来月には28になってしまう。他の人たちはどんどん結婚していくのに、どうして自分は今も結婚できないままなのか。それどころか、彼氏すらできないのは何故なのか。すでに結婚したあの子やあの子と、自分がそれほど大きく違っているとは思えない。いやむしろ、自分の方が料理だってできるし、おしゃれにも気を使っているし、かといって相手を疲れさせるような「お高く止まった高嶺の花」にもならないようバランスを取ってもいるつもりだ。それなのに一体どうして…。

 この例では、女性は他の友人たちとの比較において自分の問題の原因を考えているため、純粋に個人的な綱引きでなく、集団的な状況の中で生じる綱引きといえるのではないかと思う。こういう場合にも、友人たちの結婚が続くにつれて精神的な疲労を募らせ、冷静な判断を下しにくくなり、ともすると「自分の家系は結婚できない家系なのではないか、考えてみれば私の両親も、父方母方のおじさんやおばさんも、結婚は早くなかった。何かそういう遺伝子が私にも受け継がれていて、私が結婚できないでいるのもそのせいなのではないか…」などと考えたりする。遺伝子のせいならば、自分にはどうにもできない*1から、手っ取り早くそのせいにして「すぐには結婚できない悲しい運命の下にある悲劇のヒロイン、それは私」を演じたりすれば、多少は気分も紛れるかもしれない。いや、さすがにこれは言い過ぎだろうか。

 けれどもこの女性が結婚できないでいるのは、単にメガネのセンスが悪く、服やカバンのセンスは問題ないのにメガネが全てを台無しにしてしまっているということに気付いていないだけかもしれない。そして想像力をあらぬ方向へたくましくして、全く見当違いな理由をでっち上げてそれに浸ってしまっている、と。

では結局どう考えれば綱引きは公平になるというのか

 純粋に一個人の中だけで完結する場合にせよ、他者との関わりの中で影響を受ける場合にせよ、心の中で二つの要因のどちらが真の要因であるかということを公平に判断するためには、少なくとも現時点での私は次の二つの対処法を考えている。つまり情報を集めること、それもネット上の噂といったものではなく、専門的な情報を集めてよくそれを頭の中で整理し体系化していくこと。そしてもう一つ、それはどんな場合にも「自分には、全てではないにしてもいくらかの責任があるかもしれない」ということを素直に引き受けて考えるようにすること。この二つである。たとえ真の原因が、自分の力を超えたところにあると後にわかるような場合であっても、自分にはこういう責任があるかもしれず、したがってそれに対して何か打てる手があるかもしれないという風に考えることができるか否か。一つ目の対処法は、バイアスに関わりなく正しい原因を突き止めるという意味で必要なことであると思う。そして二つ目の対処法は、バイアスがあるかもしれないということを認め、その逆側を初めから意識するようにするという、いわばバイアスを逆手に取る考え方である。

 これだけ書いておきながら、私は「でもそもそもそんな心理的なバイアスは実はないかもしれない」と思っているところもある。何しろ科学的な根拠をまだ見つけていないのだから、結論を下すには情報不足だ。つまりこの問題自体が、何らかの心理的なバイアスの存在によって結論を誤る可能性が含まれているという危険性を私は抱いている。だから、もしバイアスなどなかった場合には、上の2つのうちの1つ目の対処法だけを実行すればよいことになる。つまり1つ目の対処法は、どちらに転んでも損はしないという、ある種の保険のようなものだ。しかしその一方で、自分には何の手も打てないと考えるのもなんだか悔しいという思いもある。だからどんな問題を考えるときにも、自分には打てる手が何かあるのではないか、裏返していえば自分には何らかの責任があるのではないかと考えるような思考の習慣をつけておきたいという思いもある。その意味で2つの対処法は私の中で、アンビバレントな関係にある。

 

 

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*1:少し前までは、遺伝子のせいにするのは責任から逃げたい人の常套手段として使われていた節があったが、近頃ではエピジェネティクスの研究が一般にも広く紹介されるようになり、環境の変化によって特定の遺伝子の発現のしやすさが変わってくるということがわかっている。そういうきっかけを作った本として、たとえば仲野徹の『エピジェネティクス』やティム・スペクターの『双子の遺伝子』、もっと最近の本だと行動遺伝学を扱った安藤寿康の『日本人の9割が知らない遺伝の真実』や、ストレートなタイトルの本としてシャロン・モレアムの『遺伝子は、変えられる』などもある。エピジェネティックな変化の存在を指摘する研究が増えているので、「遺伝子は生まれる前から決まっているのだから、生まれたあとでどうこうしたところで無駄」という考え方は妥当ともいえなくなってきている。もっとも、エピジェネティクスについて知らない人間ばかりの環境では、誰からも指摘がないために、あいも変わらず遺伝子のせいにして責任逃れをしたがる人間が残りやすいということはあるだろう。そして全ての遺伝子が環境によって変えられるわけでもない。たとえば髪の色などはどんなに環境を変えても黒から金に変わったりはしない。