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植物の生と動物の生

 『置かれた場所で咲きなさい』という本がある。渡辺和子さんというカトリックの修道女の方が書かれた本で、2012年に単行本が発売されて以来、はじめはそれほどでもなかったように思うが、去年などもけっこう話題になり、文庫化もされ、今や200万部を超えるミリオンセラーである。多くの本*1が一年以内に書店から姿を消す昨今の出版状況においては、数年以上書店に置かれ続けているのだからもはや「ロングセラー」とも言える。

 初めに断っておくと、私は著者の渡辺さんに何か不満があるわけではない。昨年末に帰らぬ人となった著者に対して、もはや私の賛辞も不満も届かなくなってしまったけれども、私は今もなお、どうしてもこの本に対して得心がいかない。それだけのことである。

 私がこの本を初めて目にしたのは、ほぼ毎日のように書店に足を運ぶ習慣があることから考えると、出版されて間もない2012年の頃だったろうと思う。まだ内容を読まないうちから「今いる場所でがんばりなさいという内容なのだろうな」と思っていた。そして私はその頃から、なんとなくこの本に言い知れぬ違和感というか、もう少し別の言い方をすれば拒否感のようなものすら抱いていた。冗談じゃない、と。

 しかしその後、この本は世間で話題になり、あれよあれよという間にベストセラーになってしまった。おいおい勘弁してくれよと私は思った。しかしその頃もなお、私は自分がどうしてこれほど違和感なり拒否感なりをこの本に対して抱いたのか、いや今も抱き続けているのかということがはっきり言葉で表現できないままだった。そこで私はこの本をひとまず一度は読んでみようと思うに至った。

 そして読み終えて率直に思ったことは、私が当初思った通りのこと、つまり「今あなたが置かれた場所で頑張ることに価値があるのだ。だからがんばりなさい」ということが書かれているにすぎないということだった。本を読むとき、その感想は先入観に左右されることがある。もしかしたら今回の私もそうであったかもしれない。読む前から「どうせこんな内容であろう」と半ば侮ったような、そういう思いがあったことは確かだ。しかしその一方で、この本を初めて読むにあたって、先入観に左右されず虚心坦懐に読み解きたいという思いもあり、なるべく本文に忠実に読もうと努めもした。けれども、やはり私の読後の感想は上のようなものに留まった。

 時間が経つにしたがって、私の中で考えがはっきりしてきた。その核になる部分だけを先取りすると、つまり私はこの本が、動物としてのヒトの生を植物としての生になぞらえた部分に反発心を抱いたのだ。この点を詳しく述べるには、二本の補助線を引かねばならない。

 『植物は〈知性〉をもっている』という本がある。この本もそれなりに売れているのか、重刷がかかり続けているようで、今も書店の本棚で何冊も横に並べて置かれているのを目にする。植物にも植物なりの「感覚器官」があり、それはこの本の副題である「20の感覚で思考する生命システム」からも知れる通り、ある意味では人間の五感よりも多く、様々なチャネルを通じて外界の変化を感じ取り、それに応じていわば戦略的*2に行動している例が数多く紹介されている。

 私はもちろん動物である。そこである意味では私と異なる存在である植物について、「植物なりの生とはいかなるものであるか」ということに関心を覚え、この本を購入して読んだ。動物と植物の違いは体の構造やDNAの中身など色々あるが、一つは動けるかどうかという点にある。動物は移動して住む場所を変えることができるが、植物はそうはいかない。芽を出して成長し、花や果実をつけるのは「その場」においてである。そういう条件のもとで生きなければならないということには長所も短所もあり、個々の植物は短所を補い、長所をいかすような工夫をして生きている。そこには植物なりの尊厳があるし、それに対して私は敬意を払いさえする*3

 しかし、そういう動かぬ賢者たる植物たちに相応の敬意を払うことと、その生き方の条件を真似ることとは同じではない。 動物として生まれたのであれば、動物としての生の条件を引き受けることを考えるべきだと感じる。そこにはもちろん植物の生との共通点もいくらか見つかるだろうが、植物の生を真似ることとはやはり明確に異なる。置かれた場所で咲くということは、私が植物であったなら、逃れ難い運命として受け入れるほかなかっただろう。それは私の生の根本的な一条件であって、二本なり四本なりの脚であちらこちらを走り、自らの意思によって環境を変えるということは諦めなければならなかっただろう。ところが実際には、私は動物として誕生し、動いて場所を変えることができる。これが補助線の一本目である。

 場所を変えるということを最も端的に示す私自身の例は、大学進学とともに19年間生活した福岡の北九州を離れて上京したことである。私は地元に自分の居場所を感じ取ることができなかった。仲のいい友人はいたし、美味しい食べ物もテレビもあり(上京前、私はそれなりのテレビっ子であった)、そこで満足に暮らしていく人間に対して軽蔑するというようなこともなかった。けれども「自分はここで暮らし続けたくはない」という思いはずっとあったし、上京してきて色々嫌なことも経験した後でも、地元に帰って地元で暮らそうとは思わなかった。そういう人間は大学にも少なからずいたし、彼ら彼女らは自分と同様に、東京での就職と東京での生活を望んだ。それが叶った者は残念ながら少なく、卒業と同時に地元へ帰っていった者や、一旦や東京で就職したものの、地方に転勤になって数年間その土地で生活し、その後関東の地元へ戻ってきてそこで勤務という者が多かった。だから、少なくとも統計的には、多くの人間は地元という置かれた場所で咲くことを求められる状況にあると言えるのかもしれない。それならばもういっそ、植物のように、今自分が置かれたその場で、自分の意思で移動して環境を変えることなど望まず、まずはその場で懸命に努力して花を咲かせることが正解なのではないか、そう訴えかけてくるような感覚を、私は『置かれた場所で咲きなさい』に対して抱きさえした。そしておそらくはそういうことを渡辺さんは書こうとしたのではないかとも思っている。これが補助線の二本目である。

 

 今の私もまた、上に述べた多くの者たちと同様に、地元へ戻される圧力の中にある。東京での就職を望みながらもそれがうまくいかず、遅かれ早かれ地元に戻ることになるのなら、もういっそ東京での就職活動など切り上げて、早々に帰ってきたらどうかというところだろうか。置かれた場所で咲きなさいという声が聞こえてくる。

 冗談じゃない。

 たとえ統計的には置かれた場所で咲くことを求められているのが今の日本の現実であるのだとしても、私は初めから場所を移動することを諦めて植物の生を選ぶなど耐えられない。動物らしく動き回り、「他人や環境のせいにするな」というもっともらしい自己啓発由来のお題目にも流されず、冷静に考えて環境が悪いと思えば環境を変える。『置かれた場所で咲きなさい』は、渡辺さんが老齢に達した後に書かれた本であり、いわば老いによる疲れが、動き回ることとの距離と困難とを生み、その困難さの感覚は一定の諦念すら生み、その全てがこの本には混じっているのではないかと私には思われた。これは本筋を外れた私見に過ぎないが、歳をとることによる諦念は色々な形で表出し、「経済成長を諦める」ということを年老いた人々が説くのを見るときにも、私は渡辺さんに感じ取ったのと同じ類の諦念を見る思いがする。

 私にはまだ動かせる足があるし、その意思もある。『置かれた場所で咲きなさい』に苛立ち続けるだけでは、私もいずれ、置かれた場所で咲くという生のあり方を受け入れざるを得ないところへ追い込まれるだろう。私の意思と私の足が、その苛立ちを上回れば、私は植物には不可能な戦略によって私の生を全うすることができるかもしれない。

置かれた場所で咲きなさい

置かれた場所で咲きなさい

 
リケイ文芸同盟 (幻冬舎文庫)

リケイ文芸同盟 (幻冬舎文庫)

 
植物は〈知性〉をもっている 20の感覚で思考する生命システム

植物は〈知性〉をもっている 20の感覚で思考する生命システム

 

 

*1:そういえば最近読んだ『リケイ文芸同盟』という小説の中で、日本に1年間で生まれる本の数が78000冊という記述があった。

*2:「いわば」などともって回った書き方をしてのには理由があって、ここ数年「植物戦略本」とでもいうようなジャンルができつつあり、それらは一様に「植物たちはこれこれこういう戦略をとって生きている。我々人間もそこから学べることは少なくないのではないか」ということが主要なメッセージになっている。『植物はそこまで知っている』『植物の体の中ではなにが起こっているのか』『植物の形には意味がある』『たたかう植物』『植物のあっぱれな生き方』などなど、現時点でもその数はそれなりの数に及ぶ。攻殻機動隊の好きな人はアーサー・ケストラーの『機械の中の幽霊』を翻訳したことでご存知の日高敏隆も、植物の戦略について平易なエッセイを書いており、私は以前の職場であった塾で、小学六年生向けの国語のテキストの中でそのエッセイを目にした。こういうところにまで植物の戦略ブームは及んでいるのかと思ったことを今でも鮮明に覚えている。

*3:この本の中でも、2008年にスイスで植物の尊厳を守る団体が設立されたことが書かれていて、リーマンショックとそれに付随する形で引き起こされた金融危機に世間が湧いていたのと同じ年に、こういうことも起こっていたのかと印象的であった。