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インフレターゲットと弾力性について

 

 「弾力性」への導入

 先日インフレターゲットの効果に対する懐疑を示す記事を書いた。

plousia-philodoxee.hatenablog.com

 この記事は4月20日に書いたあとに一旦下書きとして保存し、今日になって色々手を加えて公開したもので、公開した後になって「弾力性」(elasticity) の概念と結びつけて具体的な計算をしてみると、話がわかりやすくなるのではないかと思い、この記事を書き始めた。

 経済学では「弾力性」という概念がある。一般に「AのB弾力性」といえば、Bの変化によってAがどれくらい変化するかということを表す。たとえばミクロ経済学のテキストでは必ず紹介される「需要の所得弾力性」であれば、所得が増えると需要がどれくらい増えるかということを表す。

 それでは「消費の予想インフレ率弾力性」はどうか。予想インフレ率(インフレ率の期待値)が変化すると消費はどれくらい変化するのかを表す値ということになるが、これは消費者の所得水準によって値が異なるのではないか。つまり低所得の消費者は弾力的であり、高所得の消費者は弾力的でないのではないか。弾力性の概念を正確に定義するためには偏微分の知識が必要になるが、ここでは小学生レベルの算数しか使わない。

単純なケースで弾力性の効果を考える

 ここで消費者が10人という小規模の経済を考える。この経済の中で7人は平均年収400万円の低所得(Con[low]で表す)であり、3人は平均年収2000万円の高所得(Con[high]で表す)であるとする。所得格差はそれほど大きくないところが日本らしいといえる。これがアメリカであれば、もっと格差は大きい。所得はいずれも税引後の金額であるとする。さてこの国の中央銀行がインフレ率のターゲッティングを宣言し、予想インフレ率が1%上昇したとする。このとき、以下の2つのケースでこの政策がどれくらい効果を発揮し、その程度はどれくらい異なるかということを示す。

【ケース1:弾力性が消費者によって異なる場合】

Con[low]はこの変化に敏感に反応し、消費額が3%増加する。一方でCon[high]はそれほど敏感に反応せず、消費額は1%しか増加しないとする。

 さてこの国全体で消費はいくら増えるだろうか。つまりインフレターゲットはどれくらいの効果を発揮するだろうか。

Con[low]:400万円×0.03×7=84万円

Con[high]:2000万円×0.01×3=60万円

合計:84万円+60万円=144万円

この経済の規模はもともと400万円×7+2000万円×3=6280万円だからインフレターゲットによる消費拡大は144÷6280≒0.023つまり2.3%に留まることになる。全く効果がないとは言わないが、これで経済が上向くとはいえないし、根本的な解決とも言い難い。 日本を想定して考えたが、日本よりも格差の大きいアメリカではどうであろうかと思ってしまう。

【ケース2:弾力性が全ての消費者で同じである場合】 

ケース1では消費者の所得水準によって弾力性の値が異なるという仮定に基づいて計算したが、仮に10人がみな同じ弾力性の値、たとえば予想インフレ率1%の上昇に対して消費額が2%をもつと考えた場合はどうなるか。

Con[low]:400万円×0.02×7=56万円

Con[high]:2000万円×0.02×3=120万円

合計:176万円

となり、ケース1よりも大きな効果を発揮することがわかる。政府や中央銀行がどちらのケースを想定しているのかはわからないが、実際にはケース1のような状況であるにも関わらず、ケース2のような楽観的な想定をしているとすれば、これは見直しが必要ではないかと思う。

技術革新とマイナス金利

 もちろん、技術革新によってあらゆる財*1の価格が低下し、所得水準は一定でも購買力が増加するというのであれば、別に構わない。年収400万円のままでも、家が500万円で買え、新車が20万円で買え、海外旅行に1万円で行けるなら人々は満足に暮らしていけるだろう。しかし技術革新は短期では起こらない。たとえば銀行を介して融資へ回された富裕層の預金が企業の技術革新の原資になるとしても、身を結ぶまでは苦しい生活が続くのでは、人々の不満は消えない。

 また技術革新は財の価格を押し下げる圧力、つまりデフレ圧力としてはたらくので、物価の持続的な上昇としてのインフレを狙う現行の政策とは整合的でない。この点をもう少し詳しく述べる。技術革新のためには投資が必要であり、その投資は人々の貯蓄を原資とする。所得は消費か貯蓄に振り分けられるため、インフレ圧力によって消費が喚起されている状況では、人々は自らが得た所得を貯蓄でなく消費へ、より多く配分するようになる。そのため投資が十分な水準に保たれず、技術革新が起こりにくくなる。反対に技術革新のために投資を重視するのであれば、人々が消費よりも貯蓄へ所得を配分するような条件が求められる。これはデフレ圧力であって、インフレターゲットの環境では実現しにくい。

 ここでマイナス金利ということが問題になる。マイナス金利の環境では、銀行は国債でなく企業への融資を促される。これは投資の増加を通じて技術革新を起こしやすい環境を生み出すと考えられる。けれども実際には、技術革新によって人々の購買力が増加するということを期待できない。家も車も旅行も高いままだし、子どもを産んで育てていこうにも大学まで想定すると教育費は負担できるか不安である。マイナス金利は銀行融資を通じた技術革新によって消費者の購買力増加というかたちで効果をもつならばいいが、素朴な生活実感に照らして考えるとそういう効果があるとは思えない。

まとめ

  ここまでの話をまとめよう。消費者の所得水準が一定であっても、技術革新によって購買力が増加するならばいいが、そうはならないと考えられる場合、少なくとも短期では経済全体で消費の額が増え、ある個人の消費が別の個人の所得へというかたちで貨幣が流通していくことが望まれる。しかし2つのケースに分けて考えた通り、所得水準によって消費の弾力性が異なり、高所得者の弾力性の値が小さいような場合には、インフレターゲットの効果はかなり限定的なものに留まることになることが確認された。

 したがって、それでもなおインフレターゲットにこだわるのであれば、高所得者の弾力性の値を上昇させるようななんらかの「テコ入れ」が必要になるだろう。けれどもそれは「あなたはお金持ちなんだからもっとものを買ってください」という特定の選択を強要することになるため、「そんなの私の自由でしょ。私は清貧を是としているんです」などと言われればおわりかもしれない。一体どこに希望を持てばいいのだろう。

*1:ここで「ある財」ではなく「あらゆる財」と書いたことには当然理由があって、ある特定の財の価格が低下しただけでは、他の財からその財へ消費が移るだけの話で、購買力はそれほど変化しない。今まではうまい棒が10円、カルビーのポテトチップスが150円だったから、うまい棒を好んで買っていたが、技術革新によってカルビーのポテトチップスが50円まで値下げされたら、うまい棒を買っていた人々もカルビーのポテトチップスを買うようになるだろうが、それは購買力の増加としては大したものではない。しかしあらゆる財の価格が低下したら、うまい棒カルビーのポテトチップスもこれまでよりたくさん買えるようになる。これは購買力の増加によって生活が豊かになったと感じるには十分であろう。