出合った相手ではなく、出会い自体とどう付き合うか

 

アナロジーと等価性

 数学では、マイナスにマイナスをかければプラスになる。このことは環(ring)と順序(order)の基本性質から導かれる。この性質をネガティブ思考の反転に強引にこじつける人間がいたりする。しかしそういう考え方は安易なアナロジーに過ぎないと私は思う。アナロジーであることがいけないのではなく、安易であることがいけないのだ。

 このアナロジーが正しいかどうかとは別に、自分にとって確固たるものに思える何かを、自分の実存と結びつけ、それによって自分の実存も確固たるものにしようとすることがある。ここで実存とは、自分の生き方全体というような意味を指すと考えればよい。そういう結びつきが生まれるとき、数学や科学の概念を使ったアナロジーがよく利用される。そこでは数学も科学も、「私の実存を支えてくれるかどうか」というただ一点で、宗教と同じように機能する。その一点において、それらの中身の違いは消えてしまう。

実存から構造へ

 サルトルは、『弁証法的理性批判』を中心としたいくつかの著作において、人間の実存を根拠づけるものを探った。同書はレヴィ=ストロースの『野生の思考』で批判の対象となった。このようにしてフランスでは、実存主義は次第に構造主義へ移っていく。1960年代のことだ。サルトルレヴィ=ストロースも読まない者は、2016年に生きながら、ある意味では1960年代よりも以前のフランスに生きていることになる*1。こういうことは、個人のレベルでは至るところで起こっているだろう。時間や好奇心、あるいはチャンスがないことによって、2016年のこの世界には、1960年代を生きる者、1970年代を生きる者、紀元前を生きる者というように、一見同時代でありながら、その内側では実質的に様々な異なる時代を生きる人間たちが共存している。タイムマシンで過去に遡るまでもない。今この瞬間にも、世界は共時的であると同時に通時的でもある。

他の誰かが通った道 

 1960年代より以前のフランスに生きること自体が問題なのではない。そうではなくて、その後に人類はどう考えたか、どういう勘違いをしたのか、或いはどうやって袋小路から抜けつつあるのかなどについて知らないまま、無自覚に自分を過信して考えようとすることが問題なのだ。それは端的に言って、歴史を知らないということでもある。ここでひとつ種明かしのようなことをいうと、冒頭で「数学や科学の概念を使ったアナロジーがよく使われる」と書いたが、構造主義のあいだ、そういうアナロジーが次々に登場し、やがてそれに対して批判がうまれた。その象徴的な現象であったソーカル事件とそれに対する批判は『知の欺瞞』に凝縮されている。それでもマイナスにマイナスをかければプラスになるというようなアナロジーが今でも消えないのは、一体どうしてだろうか。壁や石が見えない者は、それを乗り越えることもできない。

歴史と出会い 

浪費と出会い

 現代人は時間がないというのに、とりわけ日本人はどこもかしこも働きづめで時間がないというのに、それではかえって時間を浪費している。浪費とは、何も生まないものに対して資源を費やすことだ。ここにある問題を抱えている人間がいて、その人間がキャンプへ出かけたとする。キャンプは楽しいから浪費でないと言うかもしれない。けれども、抱えている問題がキャンプでは解決しないなら、その問題からみればキャンプは浪費である。別の問題からみれば、キャンプが浪費でないといえるかもしれない。どの問題からみるかによって浪費かどうかが違ってくる。

 ハイデガーが「Das man」と呼んだ人間は、暇のない人間だ。Das manになりやすい労働環境、Das manから逃れにくい条件に生きる者にとっては、その限られた時間を浪費することはほとんど命取りに等しいとすら言える。自分の頭や同時代のヨコのつながりに重きを置くばかりでは、この浪費から完全には逃れられない。國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』で指摘されている論点である。

 確率的に決まる「出会い」は、過去と同じことを繰り返すのを避けるようにできているわけではない。出会いは、それが人であれ物であれ概念であれ、どうしても確率的にしか決まらないが、かといってそこに介入の余地がないわけでもない。出会いの確率的な条件を逆手に取り、出会わなそうな人間と出会う機会を作るという戦略もまた、多少の改善はあれ、根本的な解決には至らない。朝活や合コン、街コン、パーティーなどなど、確率的な出会いを生む制度を人間はいくつも作り出してきた。とはいえ、これらの制度を積極的に活用していくら色々な人間に出会おうと、知らないままであることが残り続けたり、知らないこと自体を知らないままであったりする状況から、根本的に自由であることはできない。

技術がもたらす出会いの形式

 その一方でFacebookでは、出会いは確率的でない。誰が紹介されるかは、それぞれのユーザーの交友関係から、アルゴリズムが自動的に決める。自分の知らない人間が「友達かも?」とタイムラインで紹介されれば、Facebookで偶然出会ったと感じるかもしれない。しかしそこにある偶然性はFacebook自体がもたらしたものではなくて、Facebookの外での出会いーリアルの出会いーが偶然であったことを反映しているに過ぎない。その偶然性をFacebookアルゴリズムが一定の手順で処理するプロセスの中には、偶然性は含まれない。

 この点はTwitterも同じで、あるユーザーをフォローした時に紹介される他のユーザーたちもまた、Twitterのシステムが確率的に選んだものではない。それもまた、自分が初めにフォローしたユーザーを、Twitterアルゴリズムの外側で、自分が確率的に選択した結果の反映であるに過ぎない。FacebookアルゴリズムTwitterアルゴリズムも、「他者との出会い」において確率的な要素を持たない。それは出会いをアルゴリズムで実現しようとすることに起因すると考える者もいるかもしれないが、必ずしもそうではない。アルゴリズムで確率的な操作を行うこともできる。ただ両者がそういうアルゴリズムを使っていないだけのことだ。

出会いとは別の道

 誰かとの出会いによって、自分が抱える問題の袋小路から抜け出せる場合ももちろんある。そういうことを描いたドラマや映画、漫画、アニメはたくさんある。しかしもしも、これまでに書いてきたように、FacebookTwitter、あるいは他の様々なマッチングアプリのもたらす出会いには限界があることがわかったなら、出会い以外の道もないのかを考えてみればいい。それは歴史を観察することではないか。出会いのあれこれ、ひとつひとつの出会いの良し悪しに一喜一憂することなく、落ち着いて歴史を観察すればいい。ここに出会いの限界を超えるための介入を行う余地があるのではないか。それは単に出会いを否定することとも違う。それはむしろ「出会い」との距離をうまく見積もり、出会い自体とうまく付き合うということだ。そのために、自分とは別の誰かが通った道を知らなければならない。

*1:サルトルレヴィ=ストロースも読まない者は…」というような書き方をすれば、それこそ2016年の日本においては、「上から目線」と呼ばれるかもしれない。しかし「上から目線」というフレームほど不毛なフレームもない。それを言って何がどう変わるのかを考えてみればいい。上から目線と言って相手を批判しても、何も変わらない。そしてこのフレームもまた以前からずっと「不毛なフレーム」としてあるものだ。歴史を知らないということはそういうことではないか。