入門の門の奥

 私は書店が好きで、特に何か特定の本を買うというわけでもないのに、毎日のように書店に行く。書店に行くと、そこに置かれている入門書の多さに驚く。いったい世の中には、どれほど多くの「門前」の人々が存在しているのだろうかと思わずにいられない。経済学の入門書、政治経済の入門書、歴史の入門書、文学の入門書などなど…。

 入門というのは、「門から中に入る」ということであって、入り方は色々ある。だから経済学の入門書であっても、人によってテイストが異なる。ある人は文学作品からの引用を通じて、ある人は基礎的な数学的概念の定義から、そしてまた別のある人は身近な経済の問題(アベノミクスや日銀の政策や、TPPや…)の解説からというふうに。

 何かに入門するときには、門から中に入ると、そこから先のコースが大抵決まっているものだ。それは道場でも、料理教室でも、大学でも変わらない。コースを定め、広く一般に共有可能なように全体の形を整えることが形式化ということの意味であって、そこでは各人が同じコースをそれぞれのペースで進む。そしてコースを進むにつれて、門の向こう側にあるものの景色の全体が、少しずつわかってくるものだ。大学の場合、それは学部レベルではまだ見えないままで終わることがほとんどだろうと思う。理系の人間は大学院まで進むことが多いのに対して、文系の場合は学部卒で即就職という状況だ。それ自体の批判には大した意味もないとは思う一方で、この違いが学問について個々人に与えるイメージの違いはかなり大きいだろうと思う。理系の人間にとっての学問と、文系の人間にとっての学問とでは、大学院というところまで進むか進まないかという点で考えても、景色の見え方に大きな差異があるのではないかと思われる。

 ところで、門から先がまだ存在しないのに、ただ門だけがあるということはあるのだろうか。つまり「問題」だけがあり、門を通って中に入っても、そこから先はどう進めばいいのかが入門者にはわからず、したがってそこに広がる景色の全体像もはっきりしない、ということが。

 私はここ数ヶ月間、ネットにおける人々の情報収集の形態を考え続けている。もう検索エンジン的な仕組みでは手詰まりだろうと個人的には思っている。Google検索エンジン部門のトップが人工知能が専門の人間に変わって久しいが、深層学習(deep learning)を使っても、人間による解釈が難しくなるだけで、それほどネットの風景が変わるとは思えないのだ。だから人工知能を活用するかしないかという考え方からいったん距離をとって、とりあえず人工知能は使わずに、人間が何かよいアルゴリズムを考えられないかと考えている。もちろんこれは、人工知能の研究が進んだ近年の過熱気味な人工知能礼賛ムードとは完全に逆行する立場である。

 けれども、Googleはどうもこれから先も「検索エンジン」にこだわり続ける様子だし、今の自分の技術では大したことはできないけれども、「どんなものを作りたいのか」について、なるべく具体的なイメージを作ろうとしている。

 私にとっては、「ネットの風景を変えるにはどうすればよいか」という問題に対する「門」は哲学(特に言語やテクストを主題とするようなタイプの哲学)や思想であるわけだが、問題はそれによってどんなことを、どんなふうに表現するのかという「方法」がはっきりしていないということだ。自然言語処理によって、というレベルまでははっきりしているが、それ以上の具体性がない。門はあるが、その奥には何の立派な建物もない。ただし私の頭の中には、まだおぼろげではあるものの、大きな景色が広がっている。哲学や思想という門を通ってみれば、自然言語処理という方法によって、ちっとも整理されている気のしない検索エンジンともうるさいばかりであまり楽しくもないソーシャルメディアとも全く異なる、何か新しいことができるという直観だけがある。

 人工知能のビジネスに携わる人々の間でも、近年では数学や哲学に対する関心が高まってきているようだ。数学であれば圏論、哲学であれば分析哲学言語学フッサールデリダなどの思想が注目されている*1言語学というときに、大抵はソシュールしか登場しないところに注目の「浅さ」を感じてしまうところもある。個人的にはチョムスキー井上和子、あるいは時枝誠記などに対する関心が彼らの間で高まると、もっと自然言語処理の研究は面白くなるのではないかと思っている。私自身は、最近は東浩紀を介してデリダの思想について考えたり、井上和子を通して生成文法の日本語研究への応用ということを考えたりしている。これらの関心が自然言語処理の特定のテクニックとうまく結びつけられるところまで行くことを願いながら、今も大崎駅の近くのスターバックスで、アイスココアを飲みながら『郵便的不安たちβ』(河出文庫)を読んでいる。

 立派な建物がなければ門を作ってはいけないなどということはない。奥に広がる景色の壮大さを信じてまずは門をくぐり抜け、そこには幾つかの「柱」らしきものしか見えなくとも、そこに立派な建物が建つことを信じられればそれで良い。それはある意味で、建築家的な態度でもあるかもしれない。

 門の奥で、どんなアーキテクチャがありうるのか、アーキテクトは考え続ける。