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高校生に現代文を教えながらよい文章の構造について考える

27歳 テクノロジー 仕事 情報科学 日常 東京

 やや更新が途絶えていた間に2016年もすっかり夏に入り、私がアルバイトをしている個別指導塾では夏期講習が始まった。私はその中で、高校生に向けて現代文の読解の仕方について授業をしている。普段の授業では英語(それも英語の文法)ばかり教えている私が、なぜ夏期講習の期間には現代文を教えるのかというと、もちろんこれは、仕事であるという理由もあるが、それとは別の理由もある。つまり、最近の私の関心事である、自然言語処理や検索ということについてより深く考えるために、ふだん何気なく触れている日本語(主に評論だが、小説も含む)の文章の構造について、一歩引いたところから分析してみることが有効だと考えているからだ。

 塾では出口汪の現代文の問題集を使っている。出口メソッドは私が受験生だった2007年や2008年当時もある程度の人気を誇っていたが、今でも人気は続いているらしく、書店では数多くの出口現代文シリーズが売られている。

 さて、「出口メソッド」などとさらっと書いたが、これは基本的には文章全体の構造を記号化・チャート化したもので、分析の単位は「文章」(passage)全体だ。もちろん、「指示語や接続語に注意して読みましょう」というような、文(sentence)の単位での読解テクニックもないことはないが、そちらはあまりメインではない。そこで私は書店に行き、出口メソッドとは別に、文の単位で分析をすることで文章全体の構造を読み解くというタイプの方法論を提唱している参考書がないか探してみた。いくつかそういうものがあるにはあったが、どれも上述した指示語・接続語に注目するという域を超えるものではなかった。

 私はふだんの授業では英語の文法を教えている経緯もあって、生成文法分析哲学といった分野の本も何冊か読んできた。そこでは文という単位について、単に指示語や接続語の機能に注目するといったお粗末な分析にとどまらない、高度に形式化された体系が紹介されていて、学部時代に同じく高度に形式化された体系をもつ経済学を学んでいた私は、生成文法分析哲学、論理学、統語論などの分野の営みに対して、少なからぬ感銘を受けた。

 だから市販の現代文の参考書の解く「方法」に対しては、率直に言って物足りなさしか感じなかった。それは高校生や、20歳前後の浪人生を相手に書いているという事情があることはわかる。けれどそれにしたって、もう少し紹介できる方法があるはずだ。

 ちなみにこの物足りなさについては、市販の英文法の参考書についても感じてはいるのだが、それについてはここで詳しくは取り上げない。しかし「相」(Aspect)や「法」(modality)、あるいは「文法範疇」(grammatical category)くらいは取り上げてもいいんじゃないかと思う。実際に生徒にこういう概念を教えた方が、英語についての理解が深まるということを、私は何度か経験してきた。しかもその生徒というのは、別に偏差値70以上の一流校に通っているような秀才というわけでもない。それでもちゃんと通じたのだ。…とこれくらいのことは書いておこうと思う。

 さて、それでは市販の参考書の中に「きらめく何か」を見出せなかった私はどうしたかといえば、これはもう自分でやるしかないと思うに至り、現代文の参考書という範囲を超えて、「文体」について扱った本や動画(※基本的にはニコニコ動画の有料動画)を探したり、自分なりに文の形式化を行なったりした。具体的には英語で「構文」と呼ばれているものを日本語の中にも見出そうということで、例えば「なるほどX、しかしY」という構文の場合には、Xは飛ばしてYだけ拾えばよいといった、「内容」でなく「形式的な処理」の体系化を積み重ねている。文章というのは形式的な処理だけでどこまで読めてしまうものなのか、あるいはもっといえば、むしろ形式的な処理を通して読む方が、内容にこだわりながらじりじりと味わうような意識で読むよりも本質をつかめてしまうものだと私は考えている。それはまた、特定の人間の能力に属人化されない、技術(テクニック)ということの意味でもある。

 日本語の「構文」に注目しながら読んでいくという読解法は、構文の網羅が面倒に思われるかもしれないが、以外と構文の数は少ないと感じる。段落の分け方や文章全体の構成については、文章の筆者ごとに多様な個性があるとは思うが、構文に関してはそうでもなく、けっこう色々な人が共通の構文を使いまわしていると感じる。さきほど例にあげた「なるほどX、しかしY」という譲歩の構文も、変種として「もちろんXだろう。けれどもYなのである。」や「確かにXではあるかもしれない。しかしそうではない。むしろXとはYなのである。」のようなパターンがいくつかあるにはある。しかしその程度のバリエーションに過ぎない。この程度であれば、私の問題関心の根っこにある自然言語処理では十分に扱えるレベルだ。

 構文から読むことにこだわり始めて改めて感じたことだが、人は意味を追っているようでいて、実はそうではなく、特定の形式で表現されたものに後付けで「意味らしきもの」を投影して満足感を得ているに過ぎないのではないか。売れる本のタイトルには一定のパターンがあることや、twitter上で特定のハッシュタグによって共有される表現が、代入される単語が違うだけで表現全体の形式はひとつの構文に過ぎないという現象が継続的に起こっているのは、「大事なのは形式じゃない、意味なんだ。そこに感動があるのだ。」といった、ナイーブでセンチメンタルなこだわりへの具体的なアンチテーゼになっているように思える。

 そういうわけで、構文という切り口から、日本語の形式的で広く共有可能な読解法、あるいは私たちの日常に対して新たな示唆を投げかけるような、自然言語処理の可能性について、当分は考えていこうと思う。