ディスプレイと紙

 今日は以前から気になっていた喫茶店「三十間」にやってきた。今年(2016年)の1月19日にオープンしたばかりの店ということで、まだ半年も経っていない。もともと銀座にあるお店が青山にも出店したということのようで、店についてからその辺の事情を知った。

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珈琲専門店 三十間 青山店

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 さて、お店にやってきたのが夕方だったこともあって、店内の照明はやや暗めに調節されている。紙の本を読むには暗いので、パソコンの画面を開いてブログの記事を読んだり、この記事を書いたりして過ごしている。バックライトで照らされた透過光ディスプレイでは、読む場所を問わない。極端な話、もしも今店が停電になったとしても、私はこの記事を書き続けることができる。

 しかし紙の本ではそうはいかない。紙の本に対して「ディスプレイ」(画面)という言葉はふだんは使わないが、パソコンのディスプレイとの対比のためにあえて使うと、紙の本は反射光のディスプレイだからだ。自分で発光するわけではなく、他のものの光を反射することによって、私はそこに記された文字列を読み取ることができる。パソコンのディスプレイはその裏側から光を発しているから、発光体である。だからそれは太陽と同じで、紙の本は月と同じだ。

 文章が記されたディスプレイが太陽的であるか月的であるかによって、私が活字に触れる経験の中身は変わってくる。周りが明るい日中であれば、大抵はどこでも紙の本を読める。もちろんパソコンのディスプレイに記された文章を読むこともできる。

 最近こんな記事を読んだ。

http://www.lifehacker.jp/2016/07/160705_brother_privioj983n.html

www.lifehacker.jp

 私もこの記事には賛成だ。ただし記事の中で指摘されている理由とは別の理由で。記事で挙げられている理由は3点ある。

①紙で読んだ方が理解度が高いという研究がある

②ディスプレイで書いた自分の文章をそのままディスプレイで読むのではなく、紙に印刷してから読むことで、執筆者から読者としての立ち位置に変わることができる

③印刷しているときに少し間があることで、気分を入れ替えることができる

 ただしどんな場合でも紙で読むことが正当化されるわけではなく、特定の条件の下ではディスプレイで読んだ方がよいこともあるという点は注意が必要である。詳細は記事の本文を参照。

 そして私が個人的に紙で読むことにこだわる理由は、単に発光体は眼によくないからだ。人間の目は発光体を直視するように適応していない。小学生の頃などに太陽を直視してはならないと教わったのに、私たちは本質的には太陽と同じ発光体であるディスプレイを日常的に利用している。これは一体どうしたことだろう。慣れや文化の力は強力だ。

 もうほとんどコーヒーがなくなってきた。併せて注文したチーズケーキもあと3口というところ。ここが踏ん張りどころだ。喫茶店でコーヒー1杯で粘りながら『ハリーポッター』を書いたというJ.K.ローリングを見習って粘らなければ…。

 さて、私は生活リズムとして、夜に外にいることが多い。したがって、夜にどこかの店で何かを「読む」としたら、大抵は店の照明が暗くなっているから、自然とディスプレイを見つめる方に決まってしまいがちになる。これは生活リズムを昼型に変えたり、夜でも照明の明るい店を選んだりすることによって解決することもできるが、それでは私の使える店の選択肢は減ってしまう。「店の照明をどこももっと明るく!」という主張をしたいわけではなく、私を取り巻く環境が、私の読書という経験一つをとっても少なからぬ制約を課しているその様をきちんと認識しておきたいと思ったのだ。こういうことはよほど意識していないと、自然と流されてしまうだけになってしまう類のことであるから、一人で落ち着いている時に省みるための時間が必要だ。ちょうどこの三十間のような、落ち着いた雰囲気の店などで。