言葉と行動

 

受験生とその親

 言葉ではなんとでも言える。けれど人間は、言葉ではわかっていても行動できないことが多い。言葉と行動とはそれほど密接につながってはいないからだ。ToDoリストやタスクリストを作ったり、予定表に書いたり、他人に宣言したりしても、行動できないままの人はいるものだ。親と子のやりとりでもこの点で衝突が起こったりする。例えば次の例はおなじみだろう。

親:どうしてもっと勉強しないの?受験生なのに。

子:うるさいなあ。そんなことはわかってるよ。

 人間は、わかっていても行動できないままであることが少なくない。「わかっちゃいるけどやめられない」という表現は、世代を超えたロングセラーだ。上に取り上げた親子のやりとりと同じようなやりとりは、戦後の日本で始まったものではなくて、人類がずっと昔からいろいろな地域や状況で繰り返してきたものだろう。それでもこのやりとりの不毛さから一向に抜け出せないままでいる。がんは人類が未だに克服できない病だが、この不毛なやりとりよりは、がんの方が先に克服されるのではないかとさえ思う。

カマキリとシロアリ

カマキリ

 カマキリは交尾を終えると、メスのカマキリがオスのカマキリを食べてしまう場合がある。いわゆる「共食い」(cannibalism)である。これは何も、メスは紅玉でも黒毛和牛でもなくてオスが好物だからというわけではない。リアル「食べちゃうぞ♡」でもない。あるいは交尾があまりにも苦痛で、オスへの怒りが爆発して…ということでもない。オスの個体を食べることで、メスは産卵に必要な栄養を摂取するのだ。もっとも「場合がある」という表現に注意してほしい。オスの中には、交尾の後でメスから逃れるものもいる。メスにはメスなりの行動原理があるように、オスにはオスの、自己保存という欲求にもとづいた行動原理があるということなのだろう。死ぬか逃げるか、いずれにせよ、カマキリの夫婦生活は初めから破綻するように決まっている。そこにはどんな言葉も存在しない。

シロアリ

 ある種のシロアリ*1は、集団で生活する社会性昆虫であり、自分の属する集団に危機が迫ると、自分の体をひねって体を破裂させ、体内に含まれる毒物を周囲に撒き散らして敵を殺害し、それによって自分の所属する集団を守る。人間の感覚でいえば自己犠牲の精神、あるいは愛社精神というところだろうか。もっともシロアリには、自己犠牲の感覚などない。ただある特定の状況を認識すると、特定の行動を自動的に実行するようにできているだけだ。ここにもまた、どんな言葉も存在しない。

どういう教訓を引き出すか

黙って行動すること

 どちらの例でも、そこに言葉は存在せず、ただ具体的な行動があるのみである。ああだこうだと言い訳もしない。ただ人間だけが、言葉に頼って行動から遠ざかっているようにすら見える。言葉は便利だ。記録できるから後から振り返ることもできるし、その場にいない相手に自分の思いや考えを伝えることもできる。アリだってフェロモンを通してコミュニケーションをしているのだ。また自分の考えをまとめることにも役立つ。だが一方で言葉は、行動から遠ざかることに一役買っている面もある。それは、職人的に黙って行動で示せということではないく、言葉の使い方には気をつけなければならないということだ。カマキリとシロアリから引き出せる教訓はそういうことではないか。不毛なやりとりは、文字どおり不毛であることがわかったならば、口を閉じて行動するほうがよほどましだ。その点では人間よりも他の動物の方がよほど立派だ。

欲求について

 しかし、実は私がカマキリやシロアリと人間を比べることで考えたいことは、上で述べたように言葉をどう使うかという点よりもむしろ、欲求との関係が人間とそれ以外の動物とでは異なるのではないかという点の方にある。冒頭で取り上げた受験生と親の会話では、受験生の方は勉強をしたいという欲求がないから行動できない。親が何かを言うことで、その欲求を変えることができない限り、受験生の行動は変わらない。それは「わかっちゃいるけどやめられない」と表現できる他のいろいろな状況でも同じではないか。実は当事者がそうしたいと望んでいない。だから言葉と行動が食い違う。そのとき言葉は、欲求を表現するためではなく、建前を表現するために使われている。そして建前は欲求にはかなわない。

 一方でカマキリやシロアリの例では、欲求とは別に行動パターンが決まっている。メスのカマキリはオスのカマキリを食べたいと望むから食べるのではなくて、そうするようにできているからそうする。シロアリが体をひねって破裂させるとき、そうしたいからそうするのではなくて、そうするようにできているからそうする。

 人間と他の動物の違いは、そうしたいからそうするか、そうするようにできているからそうするかの違いなのではないか。その違いに比べれば、言葉を使うかどうかは副次的な問題にすぎない。言葉がコミュニケーションのためにあるのだとすれば、動物だって鳴き声やフェロモンなど、言葉以外の方法でコミュニケーションを行なっている。人間にとって、言葉と行動の関係を考えるときに、どうしたいのかということを抜きにして考えることはできないということが、教訓なのではないか。

  最後にひとつ、あるアニメからセリフを引用をしてこの記事を締めくくろうと思う。アニメ「Black Lagoon」の第二期、「ヘンゼルとグレーテル」と呼ばれたルーマニア生まれの二人の殺人鬼の子どものうち、グレーテルの方が、教会に潜伏するCIAの諜報員であるエダとの会話の中でこんなことを言う。この例は極端に思われるかもしれないが、つまるところ人間とはそういうものではないかと私は思う。それがたとえ殺人であれ、「そうしたい」という欲求の前には、どんな道徳や合理性の建前を持ち出しても通用しない。この点でグレーテルと受験生は同じではないだろうか。

グレーテル:はぁ〜い、お姉さん(エダに向かって銃を向ける)

エダ:(グレーテルに背を向けたまま)いつからそこにいやがった?

グレーテル:一人になるのを待ってたのよ。一人で二人は相手にしたくないもの(エダの後頭部に銃を突きつける)

エダ:(ゆっくりと両手を上げる)

グレーテル:私ね、お姉さんに手伝ってほしいことがあるの。兄様がロシア女を殺したら、高飛びしないといけないのよ。でも手引き役のヴェロッキオたちは先に殺してしまったわ

エダ:(背を向けて両手を上げたまま)バカか。そこまでわかってて親を殺したのか?第一もうバラライカを殺る義理がねえ。なぜ続ける?どうしてだ?

グレーテル:フフフ…。フフフフ…。あはははははっ。ああ”どうして”? ”どうして”ですって?そんなこと?あははっ!おっかしい!そうしたいからよ。他にはなあんにもないの、そうしたいからそうするの(Black Lagoon The Second Barrage 第15話「Swan Song at Dawn」より)

参考記事

[1] 共食いについて:共食い - Wikipedia

[2] シロアリについて:

karapaia.livedoor.biz

 

*1:正確な学名は「Neocapritermes taracua」