「拝啓、いつかの君へ」とマイケル・サンデル

 先日、バイト先の塾の校舎でマイケル・サンデルの『これからの正義の話をしよう』のことが話題に上った。「上った」と言っても、話し相手の口から「あの本は面白いですよ」というセリフが出てきたというくらいのもので、私はといえば、その会話以来、「正しさ」ということについて少し敏感になっているように思う。こういう他愛もない会話が自分の基本的な「気分」を作っていることに、案外気が付かないまま過ごしているものだ。

 またそれとは別に、最近終了したドラマ「ゆとりですがなにか」の主題歌、感覚ピエロの「拝啓、いつかの君へ」の中で、「あんたの正義は一体なんだ?」という挑むような表現がある。最初にこの曲を聴いたときには、「何だか青臭い主張だなぁ。」くらいにしか思わなかった。それから少しして、自分の感じた「青臭さ」の正体について考え直してみた。ロックで何かに反抗するなら、もっと深い反抗、もっと深いロックをしてほしい。この程度のナイフじゃ何も切れない。思索性のない薄っぺらい人間からのあふれんばかりの称賛を得たって、切れ味が増すわけじゃない。「そんなに愛想笑いがうまくなってどうするんだい?」と挑発的に言われたって、愛想笑いする人間が救われないことの方が多いんじゃないかと思う。外野からカッコつけて批判しても、「それでも媚を売ったり、それでも謝ったり、それでも我慢し続けている私の思いについて、一体あんたに何がわかる」ということにしかならないんじゃないか、と。内野の人間の思いはもっと複雑なんじゃないか。この曲についてのネットでの反応を見ていると、中高生からの称賛が多かった。つまりは外野の人間たちだ。

 さっき聴き直してみると、今度はサンデルの方の思考と結びついてきた。歌詞をもう一度見直してみると、「AとBの選択肢 突如現れた狭間に あんたの正義は助けてくれるのかい?」というのがある。「あんたの正義」というのは、よく言われる言い方で言い換えるならば「自分にとっての正しさ」というところだろうか。

 自分にとって正しいという感覚が、みんなにとっての正しさとしての「正義」と合致するかどうかはわからない。もしも二つが一致しなかったら、「確信犯」(信念犯)として正義の側から法の裁きを受けることだってある。社会では、特殊な正しさと一般的な正しさとを比べれば、常に後者が優先される。そうでなければ社会は維持されないからだ。秩序とはそういうものだ。

 個人と組織は機能の単位が異なる。私の身体は一貫して機能しているが、組織という大きな身体ではそうはいかない。トップが方針を決めたところで、末端との間に齟齬が生まれる。トップの意思がすべてというわけにはいかず、常に個々人の間で調整が必要となる。だから組織には政治が生まれる。ヒトの身体の自律的な調整機構に比べれば、組織の機能の調整ははるかに難しい。心臓や骨格はそれぞれ自己主張などしないが、組織の場合はその内側で色々な個人が自己主張をしている。それぞれが個人的な「正しさ」の感覚を備えている。自分にとっての正しさが、他の誰かにとっての正しさと噛み合う保証はない。噛み合うこともあれば、ぶつかることもある。ぶつかってうまく解決することもあれば、しこりを残すこともある。私の身体にとっての正しさは常に「生存すること」であり、それは一貫しているが、集団にとっての正しさは個人の数だけありうる。そうして自由と秩序のバランスが問題になる。

目に映るものすべての景色変わって変わって変わって

淡々と進んでいく毎日にいつしか流れて流れて流れて

AとBの選択肢 突如現れた狭間に

あんたの正義は助けてくれるのかい?

(感覚ピエロ「拝啓、いつかの君へ」より)

 個人にとっての「正しさ」が公共性を確保するためには、なんらかの形で社会の側からの承認を得る必要がある。だからなんの成果も出していない個人の主張する正しさが公共性を得ることはない。Macintoshを生み出すまで、スティーブ・ジョブズの主張する「正しさ」を信じる人間が何人いただろう。しかし一旦それが世に出た後でなら、彼の主張する「正しさ」は力を持つようになった。それはiTunesという形で音楽業界に亀裂を生み、iPhoneという形で携帯電話業界に亀裂を生み、iPadという形でタブレット業界という業界そのものを生み出した。…と、こんな風に書くと、テック系の人間のジョブズ礼賛のようだが、ここでの主旨はそこではない。個人的な正しさが集団的な正しさとどう結びつくのか、ということだ。それは多数の人間からの同意を得ることによってである。多数決と同じだ。市場における投票を通じて、より一般的な正しさが決まる。正しさの一般性を自然に生み出す調整装置として市場は機能している。もちろん、市場原理による「正しさ」が「正義」と合致するとは限らない。むしろ合致しないのではないかという懸念を示したのがサンデルであった。

拝啓、いつかの君へ

自分の信じた正義なら選んで進んでみせてよ

拝啓、いつかの君へ

今ココにあるものすべて

 

「あんたの正義に覚悟はあるのか?」

拝啓、いつかの君へ

(同上)

 

 常に「生存」という正しさに従って機能する身体ほど明確に「正しさ」が決まるなら、人間はそれほど苦労はしなかっただろう。けれども人間は社会の中で生きる以上は、他者の正しさとぶつからざるをえない。自分にとっての正しさが、他の誰かにとっての正しさと矛盾しないでいられる保証などないのだ。

    それでは、自分にとっての正しさとどう向き合えばいいだろう。それは集団レベルで「正しい」とされることとぶつかるだけでなく、過去や未来の自分ともぶつかるものだ。いつかの自分にとっての正しさは、今の自分にとっての正しさと同じである保証はなく、今の自分にとっての正しさは、未来の自分にとっての正しさと同じである保証はない。未来の自分が後悔しないかどうかという視点で正しさを捉えるにせよ、あるいは「まだ純粋だったあの頃」(そんなものは幻想だと私は思うが)の自分の視点で捉えるにせよ、今の自分の視点で捉えるにせよ、自信が持てるかどうかは最終的には直観によらざるを得ない。それさえあれば安心できる、究極的な根拠などありはしない。

本当にこれで合っているのか。

本当にあの人にこんなことを言うべきだろうか。

本当に黒のポロシャツとジーパン風のジョガーパンツの組み合わせで合っているのか。

日常の様々な局面で「正しさ」が問われ続ける。

 

 

 

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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