何かを思い出すということ

 何かを思い出すこと、つまり記憶の想起には、目的に沿ってなされるものと、そうでないものの二種類がある。例を挙げると、微積分の問題を解くために記憶に頼る場合は前者、道を歩いていてふと懐かしい匂いがしたときは後者である。前者は合目的的、後者は無目的的あるいは反射的である。

 Mr.Childrenの曲で「Another Story」というのがある。私はこの曲を大学1、2年の頃によく聴いていて、それを聴きながら歩いた道の記憶や、それを聴くとついつい思い出してしまう「あの日」や「その日」の記憶というものがある。つい一昨日、私は久々にAnother Storyを聴くと、私はそれらの記憶を想起した。それを思い出すことで、特に何かをしたかったわけではない。ただ思い出すために思い出したという方が当たっているように思う。別の目的のためでなく、あたかも思い出すこと自体が目的であったかのようだ。

 合目的的な記憶の想起の場合、私は記憶に対して能動的にはたらきかけているように思える。想起の主体は私の意識であるように思われる。一方で無目的的な記憶の想起の場合には、記憶は単に「思い出される」のであって、受動的である。私がそこにはたらきかけるまでもなく、それは自然と思い出されるのだ。想起の主体は私の意識ではなく、無意識の方にありそうだ。

 それでは、何かを思い出そうとして思い出せず、検索エンジンを使ってその詳細を明らかにしようとする場合はどちらなのだろう。必要な知識を引き出す役割を担うのは、私の意識でも無意識でもなく、検索エンジンアルゴリズムである。だからこれはそもそも「想起」ではない。人間にとって、何かを覚えているということは、いつでもそれを思い出すことができるということであって、思い出せないものは存在しないといってよい。なぜなら、人間の記憶は、何かメモ紙に書き付けた電話番号のように「実体をもつもの」ではなく、思い出すたびに脳内で特定のニューロンが特定のパターンで活性化することによって「構成されるもの」だからである。音楽をダウンロードしていても、それを再生しなければ音楽としては意味をなさないのと同様、記憶は使うときに再生されなければ意味をなさない。記憶は動的な存在である。

 アルゴリズムは改良され続け、最近では機械学習が導入され、これまで人間が行ってきたことが、どんどんコンピュータの手に委ねられるようになってきた。生まれてからの年月を考えれば、人工知能は人間に比べてまだまだ若輩者である。人間ができることを人工知能の手に委ねるということは、会社の比喩でいえば、中堅社員から新入社員への裁量の移動と捉えることができる。新入社員はどんどん成長する育ち盛りなのだから、いろいろな仕事を振って成長の機会を与えよう、と。

 人工知能も技術のひとつである。マクルーハンがすでに指摘したように、人間は技術を利用することによって、技術に代替された能力を衰えさせてしまう。車で移動する者は歩いて移動するものよりも足腰が弱くなるし、手で書く代わりにキーボードで書く者は、手書きの字が汚くなってしまう。任せたことで、安心してしまうのだ。

 先日、プログラミングで自分の仕事を自動化した社員が、しばらくは給料を受け取っていたが、ついに解雇され、解雇されたときにはプログラミングのやり方さえ忘れてしまっていたという記事*1を読んだ。自分の成果によって自分を衰えさせてしまうとはなんとも皮肉であるが、私にも似たような経験はある。誰にでもこういう経験はあるのではないか。

 この筋でいくと、何かを思い出すことを機械に任せるようになると、私たちは自分の力で思い出す能力を衰えさせてしまうことになるだろう。しかし、果たしてそれだけだろうか。何かを思い出すということは、それ以上の意味を持っている。

コンピュータの学習と人間の直観

 以前にも似たようなことを書いたことがあったけれども、人間はコンピュータとは違い、さいころを100回も1000回も振らなくても、それぞれの目が出る確率を6分の1だと見抜くことができる。これは直観のはたらきだ。直観というのは、すべてのデータを集めなくても、より少ないデータからすべてのデータにフィットするような規則性やパターンを見抜く能力である。これは今の所、コンピュータよりも人間の方がすぐれている。それは二段階の意味でそうだ。まずはコンピュータには問題を正しく定式化することが難しい。人間の手によってデータを適切な形に成形しなければ、コンピュータはデータを扱うことができない。そして次に、成形されたデータを使ったとしても、コンピュータがデータの背後に潜むパターンを見抜くには数千とか数万、場合によってはもっと多くのデータが必要だ。どちらも直観のはたらきに関わるが、そのいずれにおいても今の所は人間の方がうまくやってのける。

 コンピュータの演算能力と記憶容量が拡大を続けるにつれて、直観を軽視するような風潮が生まれているように感じる。少量のデータでは偏りがあり、どうせすべてのデータを使っても短時間で計算できるのだったら、すべてのデータを使ってパターンを探したほうがいいじゃないか、と。これが最近はやりのビッグデータ機械学習の根底にある態度であるように思われる。ディープラーニング(深層学習)は人間の脳のはたらきを真似るものであって、人間が持つ「概念」をコンピュータにも獲得させようとするものであるから、これは直観に近づくようなベクトルだといえそうだ。けれどもこのディープラーニングでも、概念を獲得するためには人間に比べて厖大な量のデータを機械に学習させなければならない。これでは「直観とはなにか」ということがわからないままだ。

 直観というのは、人間の記憶と関わっている。何を記憶しているのかということによって直観のはたらきは変わってくる。人間はものを考えるとき、頭の中にある「枠組み」(スキーマ)にしたがって考えている。スキーマは自分の経験によって獲得されていくもので、センスのいい人は少量の経験からより多くのスキーマを獲得することができる。このスキーマの獲得において、記憶というのが重要な役割をはたす。「そういえば以前にも似たようなことがあったな…」と思えるかどうかがスキーマ獲得の鍵なのだ。直観というのは、このスキーマに依存して決まる。これまでに他の誰も使わなかったスキーマによってある問題を捉え、答えを出すことができた場合に、直観がはたらいたといえる。

 ここで「人間はどうやって母語を獲得するか」ということについて考えてみる。人間は自分の母語について、まだ幼いうちに習得することができる。生まれてからほんの数年の間に子どもが出会う言語データは限りがあり、しかもその中には少なからず誤ったデータ(言い間違いなど)も含まれる。しかしそれにもかかわらず、子どもはどういう言い方は文法的に正しく、どういう言い方は誤りであるかをちゃんと学習することができる。誰か特定の人間が教師として付きっ切りでサポートしているわけではないにもかかわらず、である。誤りを含む偏ったデータから、正解をちゃんとつかむことができる能力というのは、何か直観のはたらきと関係があるように思える。あえてアナロジーを使うならば、人間は言語を獲得するために必要なスキーマを、生得的に持っているということがいえるのかもしれない。このように考えたのがチョムスキーであった。彼の場合は「スキーマ」という言葉ではなく、「普遍文法」という言葉を用いた。単なるアナロジーでなく厳密を期すならば、この2つは区別されるべき概念だろう。

 ディープラーニングは概念を獲得する。では概念とスキーマはどういう関係にあるか。一見すると両者は似ているようではあるが、概念が意識的に利用できるものであるのに対して、スキーマはむしろ無意識的に利用されるものであるという意味で、両者は異なるレベルに属するといえる。それではコンピュータはスキーマを獲得できるのだろうか。

 私が記憶する力、言い換えれば想起する力が、私の外にある技術の結晶たちによって代替されていくとき、私は直観さえも衰えさせてしまうことになりはしないか。テクノロジー脅威論を安易に主張する気にはならないけれども、ある技術がどういう効果をもつかということについては、とくにそれが人間の人間たる所以に関わる場合には、慎重に考えなければならない。