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ウェブページの読みやすさは書き手が決めるべきか

 はてなブログでは自分のブログのデザインを色々と変更することができる。HTMLやCSSJavascriptのコードを使えば変更の幅は広がるが、私はデザインを変更するときにはテーマを変えるくらいのものだ。自分にとって一番読みやすいテーマを探しては、割と頻繁にテーマを変更している。

 この前「読みやすさ」ということについて考えていて、ふと思ったことがある。自分のブログのテーマは好きに変えられるのに、どうして他人のブログのテーマは変えられないのだろうか、と。せっかく面白そうなことを書いていても、残念ながらデザインが自分好みではなくて読む気が失せてしまうブログというのがたまにある。そういうとき、自分にとって読み易いようなデザインに変更できたらどれほど便利だろうか。

 自分が他人のブログを読むときだけ、一時的にそのブログのデザインを好きに変えられる「フィルター」のような機能があればいいのだ。例えばSafariのリーダー機能のように、広告を排除して読みやすいフォントでページの文章を表示してくれる機能があればいい。

 ウェブページの読みやすさは、書き手が決めるべきだとは、私は思わない。もちろん書き手は自分の作るページのデザインについても好きに設定したいという欲求を持っているかもしれないが、そこは紙の本と同様に、読み手にとって読みやすいスタイルに統一した方がいいのではないか。紙の本では、文章は縦書き、一ページに含まれる文字数や大きさも決まっている。それは書き手が口出しできる領域ではない。ウェブページの場合もそういう風になっている方が、私は便利だと思う。単に自分の好みでデザインを決めた結果、残念ながら読み手にとっては読む気を削がれる結果になってしまっていることは少なくないように思うのだ。

 …と、ここでこの記事を終わっていては、考えが浅いように思うので、もう少し考えを進めてみる。「読みやすさ」というのは、単に読みやすいということ以上の意味をもっていると私は思う。読みやすければ、内容が頭に入りやすく、したがって記憶に残りやすく、そしてそれを使って自分なりに考えるというところまでつなげやすいということだ。鎖はこのようにつながっている。読みやすい本は、再読しようという気にもなりやすいので、内容をより深く理解したり、確認したりするのにも有利だ。読みにくい本をわざわざ読み返そうという気にはなりにくい。ここで「読みにくい」というのは、何も旧仮名遣いのオンパレードだった昔の岩波文庫のような文章を指しているのではない。或いはその分野の専門家筋だけが理解できるようなジャーゴンばかりをちりばめた文章を指しているのでもない。そういう文章ならば、こちらの訓練次第である程度は読みこなせるようになるからだ。「読みにくい」或いは「見にくい」というのは、どこに何が書いてあったかを思い出しにくいということで、後から必要な箇所だけ取り出して読み返すということがしにくいのだ。

 私の頭の中に蓄えられている記憶は、私がそれについてあれこれ考えるのにしたがって内容がどんどん変わっていく。記憶は固定された情報ではなく、動的(dynamic)なものだ。なぜなら人間がものを記憶するということは、何か写真に像を焼き付けるということとは違って、思い出すたびにニューロンを発火させる必要があるという意味で「プロセス」を指すものだからだ。

 それに対してウェブ上の情報というのは、本来は書き換えが自由であるとされているが、実際には書き換えが行われることはあまりない。私自身、過去の記事の文章を読み返すことはあっても、書き換えることはほとんどない。読み返すとき、記事のタイトルの横には「編集」の文字があるけれども、そこをクリックすることはほとんどない。だからウェブ上の情報というのは、特定のページについていえば、固定された情報だ。読みにくさという点でいえば、すでに述べたように紙の本の方がはるかに読みやすいと思うけれども、「そこにある情報が静的か動的か」という点で言えば、ウェブ上の情報も紙の本も共通して静的(static)だ。

 固定された情報であるならば、せめて完成形が私にとって「思い出しやすい形」であってほしいと望まずにいられない。そういう形であることによって、情報が私の頭に移された後で、私にとってより好ましい形へとその情報を修正しやすくなるからだ。

 どんなウェブページも、書き手と読み手の両方がいて初めて成り立つものだとするならば、その読みやすさを必ずしも書き手の側が定める必要はない。読み手にとって読みやすいこと、その選択権は、どちらかといえば読み手の方に委ねた方がいいのではないかと私は思う。