ゲームとメタゲーム

 たいていのゲームには、「そのゲームに勝つ(負ける)ことによって」という形で勝敗が決まる「メタゲーム」が存在すると私は思う。親が自分の子どもとの勝負(何かもっと具体的な例を挙げるべきなのだが、あいにく思い浮かばない。各自で適当なものを当てはめてみてほしい)でわざと負けてやるとき、それは親が「親としての役割を果たす」というメタゲームでは勝ったことになるし、逆に親が子供を完膚なきまでに負かしたとしても、それで子どもが自信を失ってしまったりなどしたら、それはもうメタゲームでは親の負けだ。この場合はゲームでの勝敗とメタゲームでの勝敗が逆転しているが、両者の勝敗が一致する場合もある。子どもがはまっているテレビゲームで親子が勝負する場合、親がテレビゲームに勝てば、子どもからの尊敬や信頼を勝ち取ることによって、メタゲームでも親の勝利と考えることができる。

 このゲームとメタゲームの関係を表す文句に、「勝負に勝って試合に負ける」というのがある。勝負がメタゲームに対応し、試合がゲームに対応すると考えればよい。

 頭のいい東大生が、なぜか世間からの評価は低かったりするのは、ゲームには圧倒的な勝利を収めていても、メタゲームの方では負けてしまっている場合が少なくないということの表れなのかもしれない。こんなことを書くと語弊があるかもしれないが、どうもそういうことなのではないかと思う。例外となる人々もいるにはいるが他の大学の場合に比べると割合は低いように思う。ゲームに没頭しているうちに、実は同時進行しているメタゲームの存在に気がつかないままゲームが終わってしまったということなのではないか。

 もう一つ、「あの人悪い人ではないんだけどね…」と他人から言われている人や、「あの人優しいんだけどね…」と言われている人なども、「人格者ゲーム」では勝ちかもしれないが、それと同時進行する「恋愛ゲーム」という名のメタゲームでは負けてしまっているのかもしれない。人格的に優れていれば、恋愛がうまくいくわけではないけれど、それでも人格が優れていることにこだわってしまったりする「優等生タイプ」の人などは、大変だろうなと思ったりする。私にもそういうところはある。こういう場合に注意しなければならないのは、人格者ゲームで勝つこと=恋愛ゲームでの勝利という風に考えてしまったり、実は人格者ゲームで戦っていることになっているのに、自分では「これは恋愛ゲームだ」と勘違いしてしまっているような場合だ。ゲームとメタゲームを混同してしまうと、冒頭で述べたように両者の勝敗が逆立する場合はメタゲームの方で負けてしまう。もちろん、人格者であることによって、恋愛もうまくいく人もいるだろう。ただし、それはサッカーや将棋やポーカーのようなゲームのように、勝ち負けが明確に判定可能というわけではない。メタゲームの勝敗は曖昧だ。

 ゲーム理論では、ゲームに勝つための有効な戦略が説かれている。それはメタゲームの戦略を考える際にも役に立つことはあるだろう。しかし、ゲームとメタゲームの勝敗の関係は自明でないから、しっぺ返し戦略や裏切り戦略などを活用しても、メタゲームでは負けてしまうということがありうる。

 私は今、どんなゲーム、どんなメタゲームのフィールドの上にいるのか、そしてちゃんと戦えているのか、とふとそんなことを思った。

 

【追記】

この記事をFacebookに投稿したら、大学時代の友人からコメントをもらった。それについて少し説明が必要だと思われるので、ここに追記しておこうと思う。メタゲームの勝敗というのは、それを評価する人間の主観に左右されるところがあるということだ。ゲームの方はルールが厳密に決定されていて、それにしたがって勝敗が決まるが、メタゲームの方はルールが厳密でない場合が多く、何をもって勝ち(負け)と判断するのかが明らかでないことが多い。だからあるゲームの勝者が、Aにとってはメタゲームの勝者と移り、Bにとっては敗者と映るというようなことはままあることだ。分かりやすい例は起業家の評価であろう。ビジネスで大きく成功したのであれば、ビジネスというゲームにおいては勝者と考えて問題ないだろうが、それが「ビジネスの成功によってその人はどういう人間であると思われるか」という形のメタゲームにおける評価となると、ある者は彼を資本主義システムにおける勝者にとどまらず、人生における勝者と見なして羨み、ある者は彼を資本主義システムにおける拝金主義者と見なして人生においては成功しているとは言い難いとみなすだろう。このときメタゲームにおける勝敗は、個々人によって評価が分かれることになる。だから、もしも自分がゲームのプレイヤーの立場である場合には、問題はメタゲームの勝敗を評価する人間の「ものさし」を知っておくことだろう。